2011年02月04日

国民健康保険制度のあゆみ

国民健康保険についての3回目です。もう少しお付き合いください。

国民健康保険の保険料がなぜこんなに高くなるのか、という
ことについて、「国民健康保険には、健康保険のような
『事業者負担分』がないから高くなるのは当然では?」という
指摘があります。

確かに一面ではその通りなのですが、国民健康保険は協会けんぽなどの
職域健康保険とは似て非なる制度であり、事業者負担がないから
高くて当然、というものではないのです。

歴史をたどると、まず、どこの国にも今で言う「共済」の
ような仕組みがありました。病気にかかり、医療を受けるには
個人の収入、貯蓄ではまかないきれないお金がかかるため、
皆でお金を出し合い、必要に応じてそこからお金を出したり
お金を借りたりする仕組みがありました。

近代に入り、工場などで働く労働者は、賃金や待遇を改善するために
団結・協力をしていきます。労働組合や協同組合などの始まりです。
自分達の生活を守るため、また組合運動の拡大のために共済事業が積極的に
営まれました。イギリスなどでは、労働組合が認められていない時代には
共済のための「友愛組合」に偽装して労働組合が活動していたという
こともありました。

しかし、労働者自身による共済、相互扶助には限界がありました。
今でいうワーキング・プアの人々が増えていく中で、そうした人たちは
掛け金を払うことができず、保障から排除されてしまうこと、
19世紀にしばしば発生した大不況、恐慌のために失業給付が急増し
また収入が減ってパンクする共済組合が続出したことです。

やがて、労働運動を通して、こうした保障に対して国や資本家の負担
を要求していくようになります。
19世紀後半に入り、貧困や失業が個人ではなく社会的に作られている問題で
あることが明らかとなり、社会の安定のために社会政策が必要という考えが
広がります。また、資本家の側に立ち、労働運動を押さえようとする人々も
力で押さえつけるだけでなく、労働者の生活を安定させて反体制的な
運動の力を弱めようと考えだします。(その代表はドイツのビスマルクです)

労働者同士の保険事業に、事業主・資本家も拠出を行い、国がお金や制度的な
保障を行って運営するという「社会保険」の制度が、19世紀末から20世紀に
かけて整備されていきました。

日本においても、資本主義の発展、大正デモクラシーの風潮の中で労働運動が
広がっていくにおいて、1922年に鉱山労働者などのための健康保険法が
制定され、対象者がしだいに拡大していきました。
ここに、船員保険や共済保険などが加わり、現在の健康保険制度につながって
いきます。
働く人々の助け合いが、運動を通じて公的な制度へと拡充していったのが
今の健康保険、社会保険の制度のあゆみです。

国民健康保険制度は、1938年から始まりました。
労働者に健康保険制度が整備されていく一方で、農村部の
公衆衛生、貧困は深刻であり、ここにも健康保険が必要であるという
意見が1920年代から高まっていました。農村においても農民運動、
小作争議が多発し、対策が必要と考えられました。
しかし、費用負担の問題があり、なかなか意見がまとまりませんでしたが
世界恐慌の影響による社会不安の高まりをうけて、農民や自営業者を
対象とした国民健康保険制度が作られました。
この1938年は、「国家総動員法」が作られた年でもあります。
戦時に向けて、国民を国家体制に統合していく、という色合いもありました。
「国民」健康保険という名称も、その影響によるものです。

最初の国民健康保険法は「相扶共済の精神に則り、(中略)給付をなすを
目的とする」と第一条に定められ、保険者は「国民健康保険組合」とされ
任意の設立による組合とされました。
「国民健康保険組合」は、市町村単位の「普通組合」と同業者による「特別組合」
に分けられました。この「特別組合」が、現在の国民健康保険組合につながって
います。
「普通組合」は、基本的に世帯主のみが対象でした。また、任意設立が原則
でしたが、戦争の拡大とともに、国による強制で設立される組合が増えました。
戦争遂行に必要な食料生産の担い手、また兵力の供給源として農村部の男性の
健康管理が必要だったからです。

敗戦によって多くの国民健康保険組合が休止しましたが、1948年に国民健康
保険法が改正され、市町村公営を基本とする保険制度として再出発します。
世帯主以外の家族も保険給付の対象とされました。
1953年には療養給付費に対する国庫負担も始まりましたが、未だに
全人口のおよそ3分の1が医療保険の対象になっていませんでした。

医療保険の対象になっていなかった人は、零細企業の労働者や
特に貧困の深刻な農村地域、無職・失業者や高齢者世帯などでした。

当時、戦後の急速な復興の中で都市への人口の集中が始まっていました。
またそうした中で結核をはじめとする伝染病が国民生活をおびやかし、
対策が求められていました。働き手が病気にかかり、医療費もかさんで
家計が崩壊して貧困に陥ってしまう世帯も少なくありませんでした。
特に恐れられた結核は、生活条件ゆえに貧困な世帯ほどかかりやすく、
病気になっても医療が受けられなかったり、発症しても無理して働き、
結果的に周囲に病気をうつしてしまうなど、
公衆衛生の観点からもすべての人を対象にした医療保険制度の
創設
が望まれました。

しかし、国民健康保険を運営する市町村はそうした国民健康保険制度の
拡大には慎重でした。その時点で無保険の人たちは、収入が低いために
保険料の負担能力が低く、国保財政の悪化を招くことは明らかであった
からです。
また、強制的に保険料を課すことは一種の増税であり、生活が苦しい世帯を
さらに追い詰め、貧困を深刻化させるという問題もありました。
つまり、「相互扶助」を基本にした制度ではどうしようもなかったのです。
といって、そうした人たちすべてを生活保護の医療扶助の対象とすることも
現実的ではありませんでした。

そこで、国民健康保険法の抜本的改正が行われます。
1958年改正、いわゆる「新国民健康保険法」です。
国民健康保険の対象を、他の健康保険制度に入っていない住民すべてに広げ、
市区町村には実施義務を、国には国民健康保険事業の運営義務を課しました。

新しい制度では、所得や資産に比例した保険料の仕組みだけでなく、
保険料や医療費一部負担金の減免制度が整えられ、国が国庫負担で
そうした分野を全面的にバックアップすることになりました。
こうした仕組みは、健康保険にはありません。国民健康保険は
保険料を払えない人を排除しない保険制度となったのです。
現在、資格証明書の発行や保険証留め置きなど、実質的な「排除」が
行われていますが、しかし「資格証明書」の名前が示すように、
国民健康保険そのものから排除されることはありません。
1961年には国民皆保険が実現しましたが、それはこの
新しい国民健康保険制度によるところが大きいのです。

しかし、こうしたしくみは「保険」という制度から考えればきわめて
奇妙なものです。保険料を払えない人にも給付を行うというのは
「保険」や「相互扶助」「共済」という概念から外れます。
この新しい国民健康保険制度の性格を現すのが、
国民健康保険法第一条です。
「この法律は、国民健康保険事業の健全な運営を確保し、
もつて社会保障及び国民保健の向上に寄与することを目的とする」
「社会保障」という言葉がはっきりと明記されているのはこの国民健康保険法だけです。
「相互扶助」や「共済」という言葉はありません。

繰り返しになりますが、「相互扶助」や「共済」つまり助け合いでは、
国民の健康と公衆衛生を守れないからこそ、
「社会保障」として国民健康保険が整備されたのです。
しかし、この国民健康保険の目指すところが骨抜きにされて空文化しているのが
いまの高すぎる国保料などの国保行政の実態です。
そこをあるべき姿に変えていこうというのが私達の運動です。
posted by 向川まさひで at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 国民健康保険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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