2011年02月24日

「無能が悪徳とされない社会」

(2/25 14:00加筆修正)
タイトルを見て、何事かと思われた方もおられるかもしれません
タイトルの言葉は、小説「銀河英雄伝説」の主人公の一人、
ラインハルトの「平和とは、無能が悪徳とされない幸福な時代の
ことだ」
という台詞からです。

ラインハルトは戦乱の時代を生き、武勲によって身を立て
皇帝に登りつめ、そして平和な時代の到来とともに命を終えました。
傲慢ではありませんが、自他ともに認める優秀な政治家・軍事指導者
であり、誇り高い人物です。
そのため、この台詞にはやや「平和」に対して皮肉を含んでおり、
その物言いに、中学生・高校生のころの私は反発を覚えたものです。

しかし、今の私にはこの台詞、別の気持ちを呼び起こしてきます。
今の日本社会においては、戦争こそないものの
「『無能』が『悪徳』とされている」のではないかと。

「有能」か「無能」かということは、その人が属する社会や集団で
その人に何が求められているかによって変わる、ごく相対的なものです。
例えば文書を作るのにたいへん優れた人も、文書を必要としない集団では
「無能者」とされる可能性もあります。

「無能」であることは、決して「悪をなす」ことと同じではありません。
しかし、しばしば「無能」であることが道徳的な「悪」であるかのように
決め付けられ、人格を否定されるような非難を受けることがあります。
例えば「自己責任」論の文脈です。


「整理解雇を受けるのは、会社に対して能力を示したり、人脈を作って
こなかった本人が悪い」
「人間関係に悩んで心身を病むのはコミュニケーション力の欠如であり
自己責任だ。そんな奴を援助するなどばかげている」
「失業のリスクに備えるのは自己責任で、100万円ぐらいは貯金しておくべき。
それをせず失業してホームレスになった非正規の連中など人間のクズだ」
「公立高校を落ちて私立高校に行き、授業料が払えなくて困るなんて自己責任
公立に行けるぐらいの勉強をするか、高校に行かなければ良い」


などなど。それぞれの文章に対して言いたいことはありますが、それは
おいておくとして、これらは困っている人や被害者に対して「能力の不足」を
あげつらい、それを「努力」の不足などに置き換えて、道徳的な問題にして
それをもってその人自身を責め立てるというところが共通しています。

本当に能力がないからなのか、という問題もあります。しかし仮に能力の不足が
あったとしても、そこまで責められなければならない「悪」なのでしょうか。
能力が足りないということは、もっぱら「努力が足りない」本人の責任でしょうか。
そのために健康で働き(学び)、暮らすという人間的な生活を送ることまで
否定されなければならないのでしょうか。

そもそも、「努力」と「結果」や「能力」は比例関係にはありません。
「努力」すれば成功する可能性が上がり、能力も伸びる可能性があります。
ですが、決してそれは「努力」をすればするほど結果が出るというものではなく
さまざまな要因、時として「運」にも左右されます。
結果を見て、努力を評価するのは間違っていますし、能力が低いことは
その人の努力が足りないなどというような、道徳的な問題ではありません。

しかし、今の日本では、さっきの自己責任論のように、貧困や失業、病気など
「困難な状態に陥った人」に対して、同情や共感ではなく、そうなったことへの
非難
が浴びせられるという風潮があります。

特に、困難な状況に陥った人に、不摂生や言葉遣いの悪さなど、何らか「落ち度」
があれば、「それ見たことか」と厳しく攻撃されたりします。
「派遣切り」があちこちで行われて話題となった時も、住むところをなくして
報道された青年が、タバコやお酒を飲んでいたことや、父母との関係が悪い
ことに対してバッシングが行われたこともありました。

間違いのない完璧な生活をして、日々常に努力してありとあらゆる能力を
身に着けていればそんな状況に陥らないはず、だから何か本人の「落ち度」が
あるはずであり、やはりそれは本人の能力の欠如、そして努力の欠如に他ならない、

という幻想があるように思います。
人生常に正解、成功ばかり、常に努力と向上、なんて人が本当にいるとは思えません。
誰しも欠点のない人はいないし、失敗を犯します。いつもいつも努力や向上を
続けられるわけではありません。
しかし、非現実的な人間像が求められ、そこから外れることがわかれば
非難される風潮です。

私は、こうした風潮は、日本の社会にあるべき「ゆとり」「余裕」が失われている
あらわれではないかと思います。
社会全体がムダを嫌い効率を追求するあまり、成功や成果に効率的に結びつく
「有能さ」が善とされ、失敗やつまずきや回り道をすること、またそれを許容
することが「無駄遣い」であり、悪とされてしまっています。
常に成功、正解でなければならない窮屈な社会になっているように思います。
見方を変えれば、「失敗が嫌われ、恐れられる社会」ともいえます。
少し前の記事で書いた、若者の安定志向にも関係していると思います。

しかし、個々人の人生においても、社会全体でも、失敗やつまずき、回り道が
財産となることは多いにあります。
成果や成功を効率的に獲得する「正解」をただ出しているだけでは、そうした財産は
得られません。
今必要とされる成果や成功を効率的に出せる、という「有能さ」に社会の価値を
置いてしまうことは、他の能力や経験を評価せずに切り捨ててしまうことになり、
社会の多様性が失われ、情勢や環境の変化に対して弱い社会になってしまいます。
また、人の不完全さや弱さを許容せず、つねに正しく、「有能」であることを
求める社会は窮屈であり、失敗を恐れ、消極的、退嬰的な風潮となり
社会の活力を生み出すことはできません。

「無能」を「悪徳」と考えて切り捨てることは、社会の損失です。
経済の停滞が先か、こうした風潮が芽生えてきたのが先か、鶏と卵の話になって
しまいますが、いずれにしてもこうした風潮を切り替える必要があります。

社会保障の充実などを通して、失敗や回り道をする人を切り捨てずに社会で抱え、
その人たちの経験も、その人たち自身も社会の財産とする「ゆとり」を、日本の
社会に作っていかなければならないと思います。
そうした社会であってこそ、「失敗を恐れず」自分の能力や興味関心を生かして
活躍する人が増える、活気ある社会が作られるのだと思います。

「無能が悪徳とされない社会」は私が目指している社会のイメージの一つです。
では、「無能経営者」や「無能政治家」というのは悪ではないのか、という
批判もあるかと思います。
もちろん、特定の能力が求められる職業や地位に対して、
能力が足りないことは周りにも本人にも不幸のもとであり、その人には
地位を去ってもらう必要があると思います。
しかし、だからといってその人が「悪徳経営者」や「悪徳政治家」
であるとは限りません。この違いです。

(補記1)
能力を要求する自己責任論で一番極端だなと思った意見が
「配偶者が暴力や浮気、借金を重ねても、そんな人間だと
見抜けなかった貴方の自己責任。自分と子どもだけが離婚して
福祉や生活保護を受けるなんて間違っている」

・・・結婚前に配偶者の将来像まで見抜くことを求められたら、結婚や子どもに
前向きになれる人がどれくらいいるのでしょうか?

(補記2)
例によってマスコミが針小棒大に言っているのかも知れませんが、一部の
大学生に、就活が厳しいために、「就活に有利なように」専攻・ゼミを選択する
だけでなく、「履歴書に映える」サークル、ボランティアなどに取り組もうと
いう風潮まであるようです。まあ経験は無駄にはならないと思いますが、
本末転倒ですね。
私達の年代では、中学時代に「内申書」を意識した中学生活を送るようにすすめ
られる、といったことがありましたが・・・。
posted by 向川まさひで at 23:24| Comment(0) | TrackBack(1) | 社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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