2011年03月23日

一隅を

公示を前に、週間100回スポットを達成しました。
実際の合計は102回です。

街頭の100回スポットに挑戦していることを話すと
「何かの願かけ?比叡山の修行みたいやね」と言われました。

それでご利益があるのなら100回といわず500回でも
1000回でもやりたいところですが、住民の方から
苦情が来てしまうでしょう...

比叡山の修行、というフレーズで思い出したわけでもないのですが
私の好きな文章を紹介します。

比叡山延暦寺を開いた最澄、伝教大師の言葉です。
中学校の歴史では高野山の空海、弘法大師とセットになっていることが
多く、私もそう教えてきました。
全国にさまざまな伝承を残し、漫画や小説でも取り上げられる
ことが多い空海にくらべれば、最澄はそうした機会が少なく、
天台宗の方々には失礼ですが、やや地味な印象です。
しかし、最澄は朝廷や既存の仏教と渡り合いながら、仏教の新たな学府とも
いうべき比叡山延暦寺を立ち上げ、そこで育った僧侶がさまざまな影響を
後世の日本に与えたという点で、その業績は決して劣るものではありません。

最澄は天台宗を開くにあたり「山家学生式」という文書を天皇に提出
しました。
これは、僧侶の修行の規則であると同時に、自分達がどのような僧侶を
育てようとするかを明らかにした、いわば「建学の理念」とも
いうべきものです。
その冒頭の文章が、非常に広く知られています。少し長いですが
私のつたない意訳で紹介します。

「国の宝とは何でしょうか。宝とは正しい道を学ぼうとする心、道心です。
この道心のある人こそ国の宝と言うのです。昔の哲人は言いました。
『美しい宝石が国の宝なのではありません。世の中の一隅にあって
自分の立場において最善を尽くし、そこから広く世を照らす人(※)が
国宝なのです』と。また別の人が言うには、
『物事を理解して語れるが行動できない人は国の師となり、よく行動するが
語ることができない人も、国の有用の人材となるでしょう。そして道を語る
ことも行動することもできる人こそ、国の宝といえます。
どちらもできない人は国の役にたたない人材です』と。
道心を持つ人を、インドでは菩薩と呼び、中国では君子と言います。
悪い事は自己がすすんで引き受け、よい事は他人にわけあたえ、
自分の利益を忘れて他人に利益を与えるのは、最も慈悲深い行いです。(後略)」


(※)この部分は原文を「照千一隅」(一隅にて千を照らす)とするか「照于一隅」
(一隅を照らす)とするかで論争があり、私にはどちらも意味の深いものと思えるので、
学術的には誤りですが折衷的に訳しています。


教育の理念としても、また人の生き方の指針としても大変素晴らしいものだと思います。
のちに比叡山と袂を分かったとはいえ、日蓮、親鸞、道元など、後世で新たな日本仏教の
流れを切り開いた偉大な僧侶たちも、若き頃にこの比叡山で学び、山家学生式の精神は
それぞれの宗派で生きていると思います。

政治家でこれを座右の銘としている人も多いと聞きます。たしかに、僧侶の
指針としてだけでなく、政治家の指針としても大変重要なことが含まれていると
思います。

「一隅にあってベストを尽くし、そこから世の中を照らす人」
「語ることも行動することもできる人」
「悪い事は自己がすすんで引き受け、よい事は他人にわけあたえ、
自分の利益を忘れて他人に利益を与える人」

己に厳しく自己を見つめ、私もかくありたいと思います。
posted by 向川まさひで at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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