2011年05月03日

憲法記念日にあたって

今日は憲法記念日、日本国憲法が施行されて64年になります。
お昼前に太田県議とともに、大和高田駅で宣伝を行いました。


言うまでもなく、日本国憲法をめぐっては改憲するかどうかの
議論があります。

今では、「日本国憲法は変えるべきだ、
しかし9条はそのままで良いのでは?」という意見も出てきて、
複雑になっています。

日本国憲法については、私自身もいろいろ意見がありますが、
今日は一番の焦点である9条についてすこし書きたいと思います。

正直に言えば、私自身もこの9条には疑問を持っていました。
「もし攻められたらどうするのか、自衛権を書いていない
憲法で良いのか?」
というふうに。

「憲法9条があれば日本は攻められることはない」という意見も
聞きましたが、当時の私は(そして今も)その考えには同意できませんでした


「自衛権を明記する改憲を行うべきだ」、と私は考えていました。
しかし、私はなぜ戦争が起こったのかと言うことにいうことに
対して、学生時代から関心があり、それについて学んでいく中で
自衛権を憲法に明文化はしないほうがよい、と考えるようになりました。

その理由を一言で言えば、
20世紀以降の戦争は、「自衛のために」といってはじめられた戦争が
あまりにも多い

ということを学んだからです。

世界の歴史の中での、日本国憲法の位置づけを考えたとき、このことが
大変大きいと感じたからです。


近代以降、戦争は全国民を巻き込む大掛かりなものとなっていきます。
そうした中で、戦争にルールを作ろうという議論、さらにそこから発展して
戦争そのものを法で抑制しようという議論がうまれます。
戦争の非合法化という流れです。

とりわけ第一次大戦は各国に大変な惨状を生み出しました。
その教訓から作られた国際連盟などの国際組織、国際条約では
戦争は否定されるべきものという前提で話し合いが進められます。
その最たるものが1928年パリ条約、いわゆる不戦条約です。
「国の政策としての戦争」を禁止する条約でした。


これには日本も批准しましたが、基本的には「自衛権」は留保されていました。
条文には明記されていませんが、自明のことと考えられていました。
つまり、「自分の国を守るための戦争」は否定していなかったのです。

そして、その後の歴史で日本は侵略・戦争への道を歩みますが、
仮にも不戦条約を批准している以上、おおっぴらに戦争はできません。
そこで、戦争ではなく「事変」と呼称し、自国の国民と権益を守るための
行為であると言いました。
日本国内においても、当初は「国益を守る」ということが宣伝されました。
当時の新聞報道などを見てみると、日中戦争に参戦している兵士は
「国のために」「在外邦人を守るために」戦っていると宣伝されていました。
「中国の一部勢力が日本の権益を侵害し、日本軍や日本人を攻撃してきた
ため、やむなく軍事行動に踏み切った」
というようなものです。
太平洋戦争開戦時にも、同じような論理が使われました。
アメリカ・イギリスなどが日本を包囲し、袋叩きにしようとしているので、
やむなく起つのだ、という具合です。

戦争が長期化・拡大し、また他国との関係も悪化するなか
「自衛のため」だけでは国民世論を納得させにくくなると、「アジアの解放」
「アジアの新秩序建設」というスローガンがあわせて強調されるようになり、
その後戦火が日本国内に及ぶ頃にはふたたび「祖国の防衛」が強調される
ようになってきます。

日本の、かつての戦争に参戦した人に対して「あなたたちは侵略戦争に
加担したんだ」と言えば、お怒りになる人も多いかと思います。
それは当然のことだろうと思います。自分たちが侵略者であると
自覚して戦争に加わった人は多くないでしょう。
私も、本当に自分の国を、故郷を守るために戦おうと参加した人たちの
気持ちは否定できない、尊いものだと思います。
私自身、もしそういう状況におかれれば銃を取る選択もありえると思います。

しかし、そうした個人の心情と客観的な評価は分けなければなりません。
もし、いかに崇高な志を持っているとしても、その人が戦争のルールを逸脱した
行為を行ったのならば、法によって裁かれるべきだとおもいますし、
またかつての日本の戦争は、客観的に見て明らかに「自衛」の範囲を逸脱した
戦争であったと思います。

日本の戦争だけではありません。20世紀の第二次大戦以前の戦争でも、
また戦後のベトナム戦争などでも、多くの場合最初の戦争の理由は
「防衛」でした。
実際には、他国に対して攻撃を仕掛け、
民間人を戦争に巻き込んで殺傷するものであったにもかかわらず。


そうした、20世紀の戦争の教訓から、日本国憲法の条文
日本国憲法9条の特に第二項「戦力を持たず、国の交戦権は認めない」が
生まれていると思います。

もちろん、日本の再軍備を否定したいアメリカや連合国の政治的思惑もあったでしょう。

しかし、戦争の非合法化という点では、これまでの人類史上の積み重ねの上になる
新しい一歩だと思います。
これを、後退させるべきではありません。

そして、自衛権について、否定とも肯定とも明記しないところに
この文章の妙があるとおもいます。

「自衛のため」という理由が付いても、戦争は無条件には肯定されない、
このことが、政府に対して、戦争や軍備を選択することへの「足枷」、ブレーキとなると
思います。
また一方では自衛権をはっきりとは否定しないために、自分の国を守るための
行動については日本に一定の自由を与えています。
(第一項「国際紛争を解決する手段としては」や第二項「前項の目的を達するため
という限定の意味を含む言葉も、遠回しに、自衛に対しての武力の可能性を残したものと
思われます)


国が自衛のために武力を行使することそのものは明確には否定しない一方で、
「自衛のための」戦争も制限がされるものであるからこそ、自国を守るための武力を
一定持っていても、戦争を自分から「選択する」ということをせず、戦争回避の
努力をつくすことが出来るのではないか、と思います。


このように日本国憲法9条は、崇高な理想だけの空理空論ではなく、実は
平和の理想と現実をあわせのむ、きわめて「現実的」なものであると思います。


これが、「自衛権を明記しない」日本国憲法の第一項、第二項は
変えるべきではないと私が考える理由です。
(余談ですが、あえて9条を私が変えるとすれば、「戦時中立の原則」と
「他国の戦争への非協力」を新たに加えたいところです)



最後に、これは私自身の問題意識でもあり、また講師時代の経験からですが、
日本国憲法を子どもたちに教えるには、日本国憲法の
条文やその良さだけでなく、上記のようにその権利などが作られた
背景や歴史にももっと注目して学ばせることが必要ではと思います。
私自身も、また私の父も日本国憲法施行後に生まれ育った世代です。
日本国憲法の良さや意義を理解したのは、それまでの歴史を学んでから
でした。今の子どもたちには、なおさらそうだと思います。
平和・自由が当たり前すぎて、その価値がかえって見えにくくなって
いるのではと思います。ゆえにこそ、それが確立するまでの歴史を
しっかりと教えることが必要と考えます。
posted by 向川まさひで at 20:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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