2011年05月06日

さがしもの

古いCDを見つけて、聴いていると、高校時代の思い出が
よみがえってきます。
その中で、私がいまでも心に引っかかっていることがあります。
高校時代に読んだある短編小説です。
いつしかその本を紛失し、そのタイトルも作者も思い出せなくなっています。
しかし、物語と場面が大変印象に残っていて、今機会があれば読み返したいと
思うのです。

高校時代に駅の本屋さんがしばしば古本市をしていて、どんな本も1000円以下
で買え、また立ち読みもできたので、お金のない私には大変重宝しました。
あるとき立ち読みした文庫本、それは犯罪に関係する短編小説をあつめたものでした。
そのなかの一つに、高校生の私は私はたいへん衝撃を受け、衝動買いでその本を
買いました。その小説のあらすじはこういうものでした。

物語は、死刑を控えた男の独白で進みます。
男の名前も、聞き手が何者なのかも明らかになっていませんでした。

男は、有数のお金持ちでしたが、あるとき突然若い妻と幼い息子を
その手で殺し、屋敷に火をつけたのでした。
男は、自分が罪を犯すにいたった経緯を語ります。

男は、貧苦と差別に苦しむ幼少期をすごします。
自分の生まれた環境を厭い、また自分を差別し見下した連中を
憎み、その上に立ってやる、と思いながら育ちます。

男は家を飛び出し、丁稚奉公から独学である程度の学を身につけ、
お金を貯めて自ら商売を興します。
男は商才があり、人並み外れた努力と執念にも支えられ、
事業をどんどん大きくし、成功者の道を進んでいきます。
他人を利用し、裏切るような策謀も重ねながら一大事業家となった
男ですが、それで満足したわけではなく、さらなる上を目指そうと
します。その時、すでに男は初老に達していました。

しかし、その上には歴史と伝統があり、政治をも動かす
大財閥の一族が君臨しています。

自分と違い、先祖の遺産で食っている愚鈍な奴らだと内心では見下しながら、
頭脳と商才だけではのし上がれない現実に、男は苦しみますが、
大財閥のうちの一つの家が男の商才に目をつけ、縁組を持ちかけます。
初老の男に対し、娘ともいうべき年頃の一族の女性を娶せました。

渡りに船とばかりに、男はその話を受けます。
男にとっては、相手の女性は大財閥とのパイプであり、
また自分が成功者であることの勲章に過ぎませんでした。

しかし、この結婚が男の運命を変えてしまいます。
妻となった女性は、男が想像していたような贅沢に慣れた高慢な女性でも、
何も知らない深窓の令嬢でもありませんでした。
妻として母として、非の打ちどころのない美徳を兼ね備えた人
だったのです。

妻は、たいへん聡明であるだけでなく、誠実さ、優しさや
他者への敬意・礼節、またいたわりの心を、打算なく
ごく自然にふるまうことのできる人でした。
そして威張らずとも人を自然にひきつける、威厳ももっていました。
それらは、家族も含め他人を信じず、己の向上心のみを糧に生きてきた
男の人生では考えられなかったものでした。

妻を迎えて以降、男の周囲は変わり始めます。
男が冷たい態度を取ろうとも、妻は誠意をもって尽くします。
使用人たちにも威厳と誠意をもって接し、使用人たちもまた
男の顔色をうかがうだけの仕事から、進んで男や妻のために
働くようになります。
生まれた息子には、厳しくそして優しく、また父親を敬うように
しつけをします。そして息子も聡明に育ちます。
妻の働きにより、男を見る周囲の目も、成り上がり者という評価が薄れ
敬意と羨望をもって見られるようになります。

経済的な豊かさ、地位、そしてあたたかい家庭、名誉、
求めて得られなかったあらゆるものを得た男ですが、
そうした中で男は妻子を殺してしまいます。

なぜ、罪を犯すに至ったのか。
男は妻と息子の姿に「絶望」と「恐怖」を感じたのだ、と言います。
家を乗っ取られる恐怖だとか、財産を奪われる恐怖だとか
そういうものではない。
もっと根源的な、自分そのものが消されるような絶望と恐怖なのだ、と。


男は、聞き手が理解しがたく思っていることを見透かしながら、
気が狂って妻子を殺したのだと解釈しても構わない、といい、
最後に独白をした理由を語ります。
「世間では妻の不貞に逆上した夫が殺したんだとまことしやかに
言われているが、そうではない、妻は不貞などしていないことを
言いたかっただけだ」と。


本のタイトルには「陰」という文字があったと思います
小説のタイトルは「〇〇坂」だったと思います。

家に帰って読み返しましたが、受け入れがたさを感じ、その後読み返すことなく
そのままになり、紛失してしまいました。
もし、心当たりのある方がおられたら、コメントいただければ幸いです。

「聞き手」と同様、高校生の私が受け入れがたく感じた、
男が感じた「恐怖」とは何だったのか、作中ではくわしく描写はなされていなかったと
記憶しています。しかし、今思い返せば少し理解できるような気がします。

貧苦に育ち、他人を信じてこなかった自分が持つことのできない
他者への優しさ、敬意や気遣いをごく自然に見せられること、
自分がこれまで歩んできた人生とは全く逆の価値観に
よって、自分自身も含めて良い方向へ持って行かれるということが
男の心に耐えがたい屈辱をもたらし、心に闇を生じたのでは、と思います。
posted by 向川まさひで at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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