それを嫌がる人もいないし、ましてや教師が拒否なんてありえない」
「外国で日本のような国旗・国家を巡る裁判など聞いたことがない。
異常な教師の異常なふるまいだ」
という意見がありましたので、外国のケースをいくつか調べてみました。
まず、アメリカの判例がいくつか出てきました。
【アメリカにおける国旗国歌掲揚を巡る裁判】
1943年 バーネット事件
調べた限りでは、これが最も古いようです。これは信教上の理由から、
国旗への敬礼を拒否したために退学とされた生徒が争ったものでした。
この判決は「国旗に対する敬礼および宣誓を強制する場合、
その地方教育当局の行為は、自らの限界を超えるものである。しかも、
あらゆる公の統制から留保されることが憲法修正第1条の目的である
ところの、知性および精神の領域を侵犯するものである」
つまり、国旗・国家への敬礼の強制は精神の自由を侵害し、違憲であると
いうものです。
1970年の「バンクス事件」も同趣旨の裁判であったようです。
この時も「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」という判決が出ました。
とはいえ、これはあくまでも国と個人との関係のものです。
今回のように、教師が自分の良心から、国旗・国家への敬礼等を
しないことが許されるのか。
橋下知事は「公務員である教師にそんなことは許されない」
という見解でしたが・・・それが争われた裁判も、1977年にありました。
マサチューセッツ州最高裁判決
「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、
教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法に
もとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの
権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、
宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
また同年、ニューヨークの連邦地裁では、
「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、
個人の自由である」という判決が出ています。
国旗や国歌に対する態度はあくまで個人の精神の自由に属することであり、
子供であれ教師であれ、儀礼や態度を強制したりそれを理由に不利益な扱いを
してはならない、これがアメリカで争われた裁判の判決の要点です。
これらの判決が、その後の裁判で覆ったという話は出てきませんでした。
つまり、今の日本で行われているようなことは、アメリカでは
半世紀前に論争が行われ、決着しているということです。
アメリカは、学校で国旗国歌を教え、またそれを尊重することを
教えていることは確かです。公立学校では、国旗の掲揚が行われていますが、
生徒も教師も、国旗に対する儀礼を強制されることはありません。
メディア等では、アメリカの学校では教師も生徒もみな胸に手をあてて
国旗に敬礼しているかのような報道や写真が出てきますが、実際は
敬礼や宣誓をしたくない、という人も認められているのです。
国旗や国歌に敬礼をしたい、そうすべきだという人が多数であるとしても、
それをもって全員にそうした態度を強制することは民主主義でも
なんでもなんでもない、ただの数の横暴であり、学校現場では
「空気を読め」「長いものに巻かれろ」と子供たちに教えるようなものです。
もちろん、日の丸・君が代を認めないからといって、式の当日に
掲揚を力づくで止めようとしたり、演奏を妨害するようなことは
行き過ぎであり、許されることではありません。
事前に、国旗・国家への儀礼に反対する意思表示を行うこと、
教師同士、教師と行政との間で議論を行い、
儀礼をしたくない人には、式の進行を妨げない範囲で
不起立などの対応を認めること、また事前に、儀礼を行わないことについて
本人の意向を表明、説明する機会を与えること、
そして、こうしたプロセスを子供たちに公開することが、
なにより「民主主義」というものを具体的にわかりやすく教える
よい機会になると思います。
単なる多数決ではなく、議論を行い、一致できるところで統一して
行動をする、一致できない範囲では、話し合いによって別の行動をする
こうしたプロセスこそが民主主義です。
【国旗・国家についての外国の傾向】
さて、ほかの国ではどうでしょうか。
アメリカ以外での裁判の判例などは見つかりませんでしたが、
おおむね
「国旗・国家の扱いについては、現場の学校にゆだねられている
国が少なくない」(イギリス・オランダなど)
「国旗・国家を教育することを義務付けている国でも、行事で
掲揚や歌うことまでを義務付けている国は少ない。多くは
取り扱いを学校現場にゆだねられている」
(フランス・オーストラリアなど)ということがわかりました。
多くの人が国旗への敬礼を行い、また国歌が歌われている国というのは
決して強制ではなく、国旗や国歌が人々にとって親しみのある、
身近なものになっているが故のことです。
日の丸・君が代を日本でもっと広めたいと考える人は、強制ではなく
もっと身近なものとして国民に受け入れられる努力をすべきと思います。
(私の感覚では、日の丸や君が代はすでに相当程度浸透しており
あえて強制して反対意見を抑え込む必要性を何も感じません。私は逆の
立場から、もっと日の丸や君が代への「理解」を広げなければと考えますが・・・)
ちなみに、法律や政令等で国旗・国家の取りあつかいを厳しく規定し、
従わない人に厳罰も辞さないという態度を取っている国は、
中国や北朝鮮などです。
たしかに中国は目覚ましい経済成長を遂げている国ですが、今後の日本の
お手本にするべき国とは思えません。
私は中国脅威論や敵視論には与しませんし、あくまで中国の国民が決めること
であると思いますが、国と政府と政権政党が事実上一体のものとされ、
強く権力を集中している政治体制は、長期的には大きな矛盾をきたすと
思います。
もし、国旗・国家の強制に賛成する人たちが、中国のように強い権力が
国民をまとめあげる政治を、お上の意向と異質な意見や態度を否定し、
全員が同じ方向をむいて進むような社会を目指そうとしているのであれば、
日本の将来にとって全く間違った考え方であると断じたいと思います。
国旗国歌の教育について、冷静、客観的な立場で臨むことが必要ではないかとおいことは、おっしゃる通りだと思います。
私も、自分の主義主張を盛り込みすぎ、生徒の疑問や意見を封殺するような教師に対して反発してきたことがあります。
国旗・国家を教えないとか、「侵略の象徴」だと切り捨てておしまいにするような乱暴な議論には私も反対です。
また、国旗や国歌に対して敬意を表するのが一般的な国際感覚であり礼儀であるということ、それを教えるべきであるということも賛成です。
しかし、同時に、国旗や国歌に対してネガティブな心情をもつ人たちがいること、それは当然の権利であり、精神と行動の自由を妨げてはならないことも、しっかりと教えるべきだと思います。
また、ある国の国旗が、過去に戦争をしたような他国にとってはネガティブな心情を引き起こすこともあり、注意が必要であるということも、国際感覚として教えるべきだと思います。
日本の場合は、他国に対してだけでなく少なくない日本人にとっても抑圧や苦難の記憶と結びつくものが日の丸、君が代であり、国旗、国歌として位置付けるならばなおのこと、そうした側面を踏まえて教育を行う必要があると思います。
今の日本の国旗・国家に関する教育には、現場の教師の方々の工夫がなければこうした側面が抜け落ちてしまっています。
また、「儀礼」というのは悪用されれば強権的な支配・少数派抑圧の手段となりうるものです。
国であれ会社であれ、また宗教であれ、儀礼を通して皆が同じ立ち居振る舞いをするということの一体感、高揚感が、そうしない少数派、異分子への攻撃、また外部への攻撃的な心情と結びつくおそれのあるものです。
儀礼そのものの意義を否定せずにその危険を避けるためには、いかなる儀礼においても、その進行を妨げない範囲で沈黙する、あるいは退出するということ、そのことで儀礼そのものの内容以外において不利益を受けないということが、思想信条の自由の権利行使として保障されなければならないと思います。
特に日本では「空気を読む・読まない」というような、同調能力を良しとする風潮がありますから、こうした点をしっかりと教育し、生徒に考えされることは必要であると思います。
ゆえにこそ、指導すべきことは指導しながらも、たとえ教師であっても、生徒であっても、国旗・国家に対して敬意を持てない場合は、その意思表示を行うことと、起立しない、沈黙するといった思想信条の自由はしっかりと保障されるべきであると思います。
「日の丸の国旗は、日本の国の象徴として大切なもの。君たちがこの国旗をどう使い、どう振る舞うかでその値打ちも日本の印象も違ってくる。
国内外の人が、この旗を見て安心してくれるような場面で使いなさい。
間違っても、外国の人や、立場の違う人を威圧したり従わせるためにこの旗を使ってはならない」
と教えたいと思います。
国歌の際に立たないのは自由です。しかし、国に忠誠心が無い人は公務員になることすら出来ません。
思想信条の自由があるのですから、公務員になる事自体が間違いなんですよ。
職務命令を守れない人は公務員教師を辞め、私立や朝鮮学校の教師になった方が良いと思います。
忠誠審議の制度はアメリカでは古くからあるものであり、これらの判決もそのもとで出されたものです。
特にマサチューセッツやニューヨークの判決は、冷戦下で公務員に対する忠誠審議が強化されたもとで出された判決です。
国家が公務員に対して求める忠誠の義務と、国旗・国歌の儀礼に対する態度は別のものであると判断されているのです。
忠誠審査制度はその後も何度か変わっていますが、国旗や国歌に対する外形的な態度を以て公務員の忠誠心を計り、ふるいわけるような馬鹿げたことは行っていないと思います。
他国のスパイも反社会思想の持ち主も、国旗に恭しく敬礼し、国歌を高らかに歌うことはできるのですから。
国歌斉唱の際に立たないことを以て国に対する忠誠心がないと断ずるのは誤りです。
国旗国歌という物や儀礼に対して異議を持つことと、国に対する忠誠心や愛国心を持つことは矛盾しません。
もし、「国が定めた方法で忠誠心や愛国心を示さないのならば、その人物の忠誠心や愛国心は認めない」などと偏狭な立場をとるならば、それは国民統合と国益を損なうものであると考えます。
>思想信条の自由があるのですから、公務員になる事自体が間違いなんですよ。
無政府主義者が国家公務員になりたいとか、非暴力主義者が自衛隊に入りたいとか、
職責そのものと矛盾する思想信条ならばともかく、国旗や国歌や儀礼への考え方という職責の本筋とは異なる思想信条の違いで公職から排除する意味はありません。
教員も、あくまでも公教育と子供の成長に対する責任を果たすことが職責の本筋です。
自分の思想信条に基づいて、指導要領に反して日の丸や君が代をあえて子供たちに教えない、というような事をすれば問題でしょうが、
教員本人が日の丸や君が代に対してどのような考えを持つか、どういう態度をとるかはあくまでも職責とは別の個人の思想信条の自由に属するものです。
国旗・国家の儀礼を大事にするならば、一時退出を求めるなどの別の方法があるにもかかわらず、大阪で行われている「口元チェック」のように、「自分の思想信条と儀礼の進行を両立する」態度までも認めず、
命令と処分による強制、そして排除まで行おうとする職務命令は明らかに個人の思想信条に土足で踏み入るものであり、憲法に反するばかりか国旗国歌法制定時の趣旨にも反しています。
公務員は職務命令に服する義務がありますが、出された命令が、公務員がよって立つべき憲法および法律に反している、逸脱しているという場合であっても
正当な抗議や告発を行わず、市民や労働者としての権利行使も行わないで、唯々諾々と命令に服するのみということが
本当に愛国心や責任感のある態度とは思えません。
上げ足をとるつもりはありませんが、子供の成長に対する責務が教員の果たすべき職責であるとすれば、退出する行為は、一般的儀礼に欠く振る舞いを教えている事になる。
公と私は別けて考えるべきであって、子供たちを教育する現場で、私的態度をとるべきでは無いと考えます。
また、公務員なのですからこの日本国家の為に職責を全うして欲しいと考えます。
私はそうは思いません。事情があって儀礼に参加しない人が静かに退出することは、礼儀に反するものではありません。
また、子どもたちの教育に対しては、儀礼の前に先生たちが退出し、その後に整然と戻ってくることで、先生たちにも思想や信条の違いが存在すること、しかしそれが違っていても、ともに子供たちの教育に奮闘し、入学・卒業を祝していることを強く伝えることになると考えます。
国旗・国歌への儀礼という物の内面的意味を大事に考えるならばこそ、とにかく無理にでも形だけ一致させればよいというような態度を、校長や教育行政がとるべきではありません。
「内面がどうであれ、上の言うことには形だけでも合わせればよい。空気を読め」というお手本を示すのはあまりに情けない話です。
>子供たちを教育する現場で、私的態度をとるべきでは無いと
教育に私的感情、思想信条に基づく恣意的内容や判断を持ち込み、教育内容を逸脱して生徒たちを振り回してはなりません。
しかし、それは自分の感情や信条を全面的に封印せよということにはなりません。職権や地位を私的に利用するものでないかぎり、思想信条の自由とそれに基づく態度を示す権利はいかなる公務員にも保障されています。
公私の分別は必要ですが、内面はどうであっても形さえ合わせればよいのが「公」の儀礼であるとは私は思いませんし、子どもたちに教えるべき「公」の姿ではありません。
また、教育とくに徳育はきわめて人格的な営みです。子供たちは、道徳の教科書よりもずっと多くを、親や教師の立ち居振る舞いや言動、そこにあらわれた人格から吸収し、尊敬する「大人」、目指すべき「大人」の姿を学び取り、「徳」を学びます。
その際に、教師は自分の思いのままにふるまってはなりませんが、同時に人格の大事な要素である感情や思想信条を全面的に封じ、規則と命令と建前の通りにふるまっているだけでは、子どもたちに正しい「大人」の姿を見せることはできません。
自分を見せず、規則や命令に従うことのみを是とする「大人」の姿からは、子どもたちに大人や社会やあるいは「道徳」といったものへの理解や敬意をもたらすことはできません。むしろ、大人とは、社会とはなんと窮屈でつまらないものだろう、と不信や軽視をもたらすことになります。
自制心は必要ですが、感情も思想信条もある大人としての教師の人格を正しく子供たちに見せることを通してこそ、教師や大人への敬意、社会への理解を育て、子どもたちの人格的成長につながるものと考えます。
>公務員なのですからこの日本国家の為に職責を全うして欲しいと
失格教員でも国旗に恭しく敬礼し、国歌を高らかに歌うことはできるのです。
上のコメントにも書きましたが、国旗国歌という物や儀礼に対して異議を持つことと、国に対する忠誠心や愛国心を持つことは矛盾しません。
公僕としての職責を全うしているかどうかは、その人の普段の教育への取り組みで判断すべきことです。子どもたちを熱心に教育し、また子供たちから威厳や敬意を持たれる教師であるかどうか。
私の高校時代の先生にも、信念から日の丸・君が代に不起立を貫いた教師がいましたが、普段は思想信条を生徒に押し付けるような言動はなく(生徒から聞かれれば丁寧に説明していましたが)、生徒たちの質問・疑問には丁寧に答え、指導には大変熱心でした。また、人と人とのマナーや礼節も自ら率先垂範して生徒たちに示した先生でした。
こういう先生が日本国の公僕としての資質に欠けるものであるとは、到底思えません。
それは良い先生に出会われましたね。わたしの中学の時の教師はまったく逆で、日の丸・君が代は悪しきものだとさんざん教えられました。君が代は悪しきものだと教えることと、君が代を立って歌いましょうということ、どちらが子供に悪影響を与えるでしょうね? まぁ、どちらにせよ、教師は学校の中にいる時は自分の思想とは関係なく行動していただきたいものです。
それは一方的に過ぎますね。多面的にものを見ることを教えなければならない中学校で、
教育内容に「善」「悪」の色付けをすることは慎重でなければなりませんし、頭ごなしに決めつけるのはダメですね。
>君が代は悪しきものだと教えることと、君が代を立って歌いましょうということ、
>どちらが子供に悪影響を与えるでしょうね?
どちらも度が過ぎれば悪影響でしょうね。
どっちの方向を向いていても、生徒たちの内心や内面を理解せず、頭ごなしに自分の指導に従わせることだけを押し付けるようなやり方では、生徒たちは国旗や国歌の本当の意味を理解できないでしょうし、むしろ後々反発を覚えるでしょうね。
>教師は学校の中にいる時は自分の思想とは関係なく行動していただきたいものです
個人の信条で教育内容を逸脱し、あるいは指導を怠けて生徒を振り回すことは許されませんが、上のコメントにも書いたように、教育はきわめて人格的な営みです。
教師が個人として、あるいは社会人として何らかのポリシーを持ち、行動したり生徒にそれを表明することは、生徒に大人のありようを示すということで教育的な意義があり、悪いことではありません。特に、揺らぎながら大人への道を模索する時期である中学生や高校生の生徒たちには、教師は指導する存在であると同時に、大人や社会のモデルロールとなるものです。
もちろん、規律との間で自制やバランス感覚が必要ですが、そのこと自体が生徒に対して「自由」と「規律」との関係を示すことになります。
大事なことは、あたかもかつて非西洋世界を「教化」せんとした多くの宣教師のように、生徒に対して教育内容や自分の考えを一方的に流し込もうとする指導姿勢をとるのか、
生徒たちにも経験や感情で形作られた精神の世界があることを理解しつつ、自らの教育を通してその世界の幅を広げようとする指導姿勢をとるのか、ということです。
このまま、そういう教職員がいなくなり、流れに任せる子どもたちばかりになることに恐怖を感じます。戦前のような「思考が止まった」状態に陥ることが教育なのでしょうか。「考える力を育成する」と言い、その後ろ姿は見せない。大人がその責任で考えなければならないと思います。
コメントありがとうございます。
教育とはきわめて全人間的営みです。
「中立」「不偏」の名のもとに、教育における教師の人格的な部分が抑圧され、教師自身が、子どもたちを取り巻く教育についてどう思うか、どうすべきなのかを考えることさえ放棄させられてしまうことに私も強い危惧を覚えます。
自分で考え、発言し、他の意見をも尊重するという大人の姿をこそ、教育現場で子供たちに見せるべきだと思います。
>また、子どもたちの教育に対しては、儀礼の前に先生たちが退出し、その後に整然と戻ってくることで、先生たちにも思想や信条の違いが存在すること、しかしそれが違っていても、ともに子供たちの教育に奮闘し、入学・卒業を祝していることを強く伝えることになると考えます。
>国旗・国歌への儀礼という物の内面的意味を大事に考えるならばこそ、とにかく無理にでも形だけ一致させればよいというような態度を、校長や教育行政がとるべきではありません。
「内面がどうであれ、上の言うことには形だけでも合わせればよい。空気を読め」というお手本を示すのはあまりに情けない話です。
全く反対ですね。
通常な大人は公の場では個人の信条に反するこおであっても、取り合えずルールに従うということを教えるべきですね。
例えば仏教が嫌いという理由で、知人の葬式で、お坊さんがお経を唱えはじめた途端に、「静かに退出し」、「その後に整然と戻ってくる」という人がいたらどう思いますか?
子供たちの良い見本となりますか?
まぁ、こんなコメント表示してくれないのだろうけどね。
>通常な大人は公の場では個人の信条に反するこおであっても、取り合えずルールに従うということを教えるべきですね。
「公の場」が多様な価値観の人が集う場となっている現代、そのルールこそが時代に合致するように見直されるべきでしょう。
>例えば仏教が嫌いという理由で、知人の葬式で、お坊さんがお経を唱えはじめた途端に、「静かに退出し」、「その後に整然と戻ってくる」という人がいたらどう思いますか?
>子供たちの良い見本となりますか?
信仰上の理由でそのような対応をする人は実際にいますし、それを悪しざまに言うならばその人の信仰を踏みにじることになります。
現に私の知っているところでも、厳格なキリスト教の信仰のために
仏式の合掌・焼香・礼拝はできないとして、親族・友人の葬儀でも、式次第が始まる前に故人と遺族に挨拶のうえいったん退出し、式次第終了後に戻るということをしている家族がいます。
信仰が違う中でも誠意を尽くそうという姿勢であり、違いを認める中で人と人との絆の在り方を示すという点で、子どもたちの良い見本でもあると思います。