さざんかホールの大ホールで行われ、開式前に私たちは壇上で着席していたのですが、
開式のブザーの後に、幕が開いてホールの参列者の皆さんの姿が見えた時、
「少なくなったなぁ・・・」とベテラン議員の方がつぶやかれました。
私も、会場の大きさに比べて参列者の方々の数が少ないことに驚きました。
戦争が終わって、66年。ご遺族の中にも、天寿を全うし戦没者の御霊のもとへ旅立たれた方も
少なくないでしょう。ご健在の方も多くは高齢を迎えられ、会場まで赴くことが
難しくなっておられるのだと思います。
戦争はすでに3世代、4世代前の時代のこととなっています。
しかし、ご遺族の悲しみは決して消えることはありません。
戦没者を厚く追悼し、語り継ぐこと、
二度と過ちを繰り返さず、平和な日本を続けることが
私たち戦後生まれの世代の責任であると思います。
追悼の言葉の中で、私は特に大和高田市の遺族会会長の追悼の辞が
印象に残りました。
ご自身が経験された遺族の悲しみ、そして残された方々の戦後の御苦労に
触れられ、「戦没者の妻たちも、まもなくあなた方のもとへ旅立つでしょう。
どうか、温かく迎えてください。そして、苦労話を聞いてあげてください」
という戦没者(会長はご尊父が戦病死されたとのことで、その姿を慰霊碑の
向こうに見ておられたのだと思います)への呼びかけは
胸を打つものがありました。
夫や父親を失ったがために、戦後においても多くの遺族の方々がさまざまな
苦労をされてきたということを、改めて実感しました。
会長の世代の方々は、母子家庭であるがため、生活の困難、進学の断念、就職差別
など、大変な苦難を味わってこられました。
「高度成長」「目覚ましい復興」という言葉が、戦後の昭和を語るときに
枕詞のように出てきますが、決して順風満帆、明るいばかりの時代ではなく、
戦争で夫や父を失った方々の艱難とともにあったことをしっかりと
刻まなければならないと思います。
式の後、改めて終戦と戦後日本について考えました。
私たちは過去を結果からとらえて、
戦後日本は、すぐに戦争から平和と経済に心を切り替え、
オイルショックまで、あるいはバブル崩壊まで、経済発展に力を尽くし、
右肩上がりで生活をどんどん向上させてきたように考えてしまいがちです。
昭和40~50年頃の日本を「良い時代だった」と回想する人も多いです。
翻って今、日本は戦後以来の国難に直面しています。もう日本はダメだ、そんな
言葉も飛び出します。政治は、これに対して有効なビジョンを示せていません。
経済も、悪い材料が飛び交います。
今は「良い時代」か「悪い時代」かと聞けば、後者と答える人の方が多いでしょう。
青年の間でも、「悪い時代」に生まれたと感じている人が少なからずいます。
私自身も、この困難の中で社会を変える展望の難しさ、ネットなどで飛び交う
人と人の共生協同ではなく対立と憎悪をあおる言説の氾濫に、
心が折れそうになることがあります。この時代の流れにはあらがえないのか、と。
でも、決して絶望してはならない、そう思います。
戦没者遺族の方々のご苦労のように、「良い時代」の戦後日本は決して順風満帆ではなく
困難があり、危機があり、紆余曲折があり、決して右肩上がりの一本線ではなかったのです。
日々、それぞれの場所で、困難にぶつかり、苦しみながら一生懸命
働き、たたかい、生き抜いてきた多くの方々あってのものです。
「良い時代」というのは、その果実を見て判断しているにすぎません。
一直線にすべてが良い時代などというものはない。
「良い時代」と思っても、時代に溺れずその中からこぼれた影にしっかりと目を向け、
「悪い時代」と思っても、時代と格闘し、困難の中から光を見出し、育てていく
そういう共産党員であり、日本人でありたいと思います。