2012年01月28日

「私は損をしている」感覚


生活相談や議会準備のかたわら、積読状態になっている文献や
資料にいろいろ取り掛かっています。
特に、橋下市長を生んだ大阪ダブル選挙について、
橋下市長の政策批判だけでなく、その背景にある思想、また
強い支持を生んでいる「閉塞感」と「打破への期待」について
深い検討と考察が必要と感じています。
あまりまとまっていませんが、その背景の一つである「感覚」に
ついて書きたいと思います

【『私は〇〇よりも損をしている』】
財政や雇用、社会保障をめぐる議論において、「〇〇よりも××が得をしている」
あるいは「損をしている」という論調が目立ちます。
「高齢者は得をしていて、現役世代は損をしている」「団塊世代は得、若者は損」
「公務員は得をしていて、民間は損」「生活保護は得、まじめに働く人は損」など。

これを分断を煽っている悪しき言説であると思いますが、これを肯定してしまって
いる人もすくなくありません。そして深刻なのは、これが、相反する事実を
示されたら間違いに気づく、またはあらためて考えるという「誤解」ではなく、
相反する事実を示されても受入れられず、むしろより考えを強くするという
「偏見」のレベルになっていること、そうさせる「感覚的」なものがあるということです。
「自分は損をしている」「他の誰かは得をしている」という感覚が
厳しい社会情勢と相まって、「得をしているはずの『誰か』」への
憎悪、偏見をかき立てられているというように思います。

「自分は損をしている」「他の誰かは得をしている」という感覚は
どこからくるのでしょうか

「自分は損をしている」という感覚ですが、実は今から15年以上前、
この言葉がキーワードになった小説があります。林真理子氏の「不機嫌な果実」
という小説です。スキャンダラスな不倫小説として注目され、何度か
映像化もされていますが、この小説では主人公の女性は社会的に満ち足りている
はずの生活の中で「私だけが損をしている」という感覚に突き動かされ、
不倫に走り、不倫相手と再婚するもまた同じ感覚にとらわれていく、という
筋立ての物語で、1995年の作品ゆえバブルの残り香もあり、
経済的にも苦しい状況の中で閉塞感に覆われている現在の世相と
くらべれば、ずいぶんとお気楽でわがままな女性の話のようですが、
「損をしている」という感覚にしたがい、他の人を責め、悪意にとらわれる
というあたりは、むろん安易に結び付けられませんが、気になるところです


【目標の見えない努力・競争とそれからの逃避】
同じ林真理子氏の小説で、最近映像化もされたものに「下流の宴」という
作品があります。格差社会をめぐって、親子の対立などがやや戯画化されて
描かれているのですが、特に注目を浴びたのは、主人公の女性の息子の
生き方です。学歴を尊び、下流や貧乏を嫌い、子どもたちに努力と向上を
説く母親とは逆に、「努力」を徹底的に忌避する生き方をします。
彼女が自分のために頑張って医学部に合格しても、「努力する人の傍らにいる
だけで、自分が憐れまれたり責められるようだ」
と、彼女との距離を感じて
別れを選ぶほど、それは徹底しています。
この生き方には「理解できない」「ゆとり教育の弊害」という意見が多いのですが、
私には少し理解できることがあります。
「努力」や「競争」、そして「向上」を信じられず、社会がそれを
押し付けてきたらむしろ逃避を選ぶ、という意識が生まれていることです。


私の年代の頃は、まだ一定、学歴をつければ社会的地位が高い生き方ができ
将来が保証されるという風潮があり、そのために努力をすることが
信じられていました。なにより、親の世代、団塊の世代の生き方が
その神話を体現していたといえます。去年よりも今年、今年よりも来年が
より良くなる、という感覚がまだありました。
しかし、私より10歳ほど下の世代では、物心ついたときから不景気が続き、
将来の安定などが見えなくなっている世代です。
親世代もその直接の影響を受け、苦しむ中、親も子も、勉強や努力をする
説得力のある目標を見失ってしまいました。
私たちが中高生のころには、「勉強したって、しんどいだけじゃないの?」
という雰囲気が広がっていました。「偉くなること」を忌避する風潮も
ありました。
「『まじめ』の崩壊」という千石保氏の本では、1977年ごろからそういう
風潮は広がっていたようですが、バブル崩壊で一気に加速したと思います。
まさに「まじめ」という生き方、価値観が支持を失った時代であると思います。
それに付随する「コツコツ努力すれば報われる」という意識も説得力を失いました。

【自己責任論と「悪いのは私じゃない」症候群】
かわって、「もう会社も国も当てにできない、自分の身は自分で守り
自力で厳しい競争に勝ち残らなければならない」

という自己責任論が力を持ってきました。「自己責任」ということが
声高に言われる前から、1990年代前半にはこのような風潮が芽生えていたと思います。
『詰め込み』よりも『個性』や『主体的な学力』が大事という『ゆとり教育』も
この文脈でみれば、また別の側面が見えてくるのではないでしょうか。


ここで、努力や競争の意味が変化します。何かを「勝ち取る」ために努力・競争すると
いうことから、競争が常態となり、競争に「勝ち残る」ために努力するという
風になります。競争に「勝ち残った」としても、競争に終わりはなく、また
勝ち残っても今より良い状況が保障されるわけでもない、でも競争に勝ち抜かなければ
「落ちて」しまう、そういう競争であり、努力です。
言い換えれば、下向きの競争であり、目標の見えない努力、報われるという感覚の
持ちにくい努力の中に放り込まれているということです。


こういう競争環境の中にあっては、自分と他人との相対評価を抜きにして
自分を認める、他人を認める、また他人から認められる、という感覚を
持ちにくくなるのではないでしょうか。
目標が見えないからこそ、よけいに自分と周囲の優劣が強く意識されます
また、目標に向かう競争では、競争相手・ライバルは必ずしも「敵」ではありませんが
目標なき、優劣のみの競争では、競争相手は「敵」となり相手の失策が自分の利益、
自分の失敗は相手の利益となります。連帯や協力が生まれにくくなるだけでなく、
自分と対等とか、優劣関係なしに相手を評価する感覚が出てきにくくなると思います。
そして、相手を貶め、攻撃することで、相対的に自分を「優位」に持っていこうとする
心理が生まれるのではないでしょうか。実際に自分の利益のために他人を貶めると
いうだけでなく、自分の自尊心・自我を守るため、具体的なメリットがなくとも
相手を叩いて自分を肯定するという心理にも。

香山リカ氏は「『悪いのは私じゃない』症候群」という著書で、自分の非を認めず
「先制攻撃」で相手を非難するという行動の広がりを指摘し、それを
「自己責任」感の裏返しの病理であると指摘しています。
自分の非を認めることは自分の減点、自我の危機につながり、それを回避するために
相手を先にたたき、減点しておくことで自分の有利と自我を保とうということです。
私は、学校などでのいじめの類型で、いじめる側が相手の小さな失態や行き違いをあげつらい
いじめの口実にして正当化する(時には相手の行動で「不快」や「被害」を
受けたとまで言って非難し、口実ではなく本気で執拗に攻撃する)、
大人社会では「モラルハラスメント」というような心理とも関係があるのではと思います。

一方、格差社会の広がりについて研究している山田昌弘氏などは、
こうした競争の目標喪失と自己責任の強調によって、
学力が低い、家庭が経済的に苦しいなど「不利な」状況の若者はかえって
希望を見失い、「努力」や「競争」からドロップアウトする傾向が出て
きていることを指摘しています。
報われない努力をするよりも最初からドロップアウトしたほうが賢い、
それも自己責任であって周りからあれこれ押し付けられるものではない
・・・というわけです。
「下流の宴」の主人公の息子などはその類型かもしれません。

【「閉塞感」から「あいつが悪い」へ】
ところで、政治の場で日本の「閉塞感」ということを論じるとき、
それは日本経済の停滞であり、それからくる景気の悪さや
社会の問題を指して論じられますが、
しかし、個々の有権者にとっては、より切実なのは自らの生活、生き方
暮らしを覆う閉塞感ではないでしょうか。この違いも考えなければならないと
思います。

去年よりも今年が良いという実感のない経済
努力しても、報われる、認められるという実感が持ちにくい状態
一方で目標の見えない、しかし絶え間なく、
他者との相対的優劣を常に意識しなければならない競争状態


この中にあっては、特に若い世代は息の詰まるような閉塞感だと思います。
本来はこれは個人の責任に帰することのできないことであるはずですが、
「自己責任」感はそれを許しません。能力の劣る、努力の足りない自分の
責任であると自分を責めようとしますが、しかしそれはあまりにも重すぎ、
ますます閉塞感を強め、逆に、自分を守るために「自分以外のせい」の
答えを求めるのではないでしょうか。

それが「他者は不当利得を得ており、自分は損をしている」という答えだと
思います。これが「資本主義」とか「社会システム」の問題とならないのは、
他者との相対的な優劣を意識しなければならない今の競争社会ゆえだと
思います。抽象的なもののせいなら、いくら叩いても自分が他者より上にならない。
それでは「自分の」苦しみ、閉塞感は解決できません。

だから、より具体的な他者を想定し、「あいつらのせいで自分は損をしている」
とみなし、その他者がダメージを受けると、自分の正しさが証明された
気がして溜飲をさげるということにいうことになるのではないでしょうか。
そして、そうした答えを出してくれる人を評価するのだと思います。
また、それに反するデータを示されても、自分を守るためには
受入れられないようになっているのではと思います。

しかし、その他者がダメージを受け、「落ちた」としても自分がよりよくなる
理由はなく、閉塞感の根本的な解決にはなりません。

【解決の道筋は】
日本の経済の閉塞、停滞を打破すれば解決、といいたいところですが、それが
簡単にできれば苦労はしませんし、これも根本解決にはならずにまた同じ歴史を
繰り返すことになると思います。
といって、単なる競争否定論や昔に戻ろう論も現実的ではありません。

「自己責任」論・「自己責任」感をのりこえるため、人々が細かな
損得・優劣を気にせず、認め合いのよりどころにできた地域コミュニティや
職場集団などの中間集団を、もういちど、今の時代に合った形で再建すること、
個人間競争ではなく連帯と話し合いによるルール作りができる環境を確立し、
教育の競争環境を見直し、先の見えない相対評価を緩和して、
目標に向かい、連帯や認め合いをしながらともに伸びることのできる競争環境を。
また全年齢層への社会保障の拡充、充実を行い、競争で勝たなくても見捨てられない、
国や社会は、困った人を見捨てない、と実感できるようにすることが必要だと思います。

ありきたりな表現ですが、損得抜きの「絆」を感じられる社会にすることです。
自分の損得をいつも意識していたら、ずいぶんギスギスした社会になりますし、
環境によっては「何もしない」のが一番得ということにもなります。
仕事にしたって、家庭にしたって、自分の労力が客観的に「報われている」と
いう状況のほうが少ないと思います。でも、自分が損をしているようでも
動けるのは、仕事のやりがいや、愛情・責任感・信頼関係といった「絆」の
なせる業だと思います。
それを再構築すること、そのためのビジョンを明らかにすることが、
個々人を締め付ける「閉塞感」を打ち破る方策であると思います。
posted by 向川まさひで at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 競争社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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