2012年10月19日

いじめ問題についての所感@

大津市での痛ましい事件を契機に、あらためて「いじめ」の問題が
大きな議論を呼んでいます。
個々の事件については、私は十分な材料を持っていませんので
深く論じることは控えますが、「いじめ」の問題と
改善、解決の方向について、私の考えを少し述べたいと思います。

・・・って、「少し」のはずがまた論文になってしまいましたが・・・。
長い文章なので、分割したうえで、最初に全体超要約と前半部分の項目を載せます。
興味を抱かれた方は続きを読んでください。

【全体超要約】
 1.いじめの土台には、集団生活の中で当たり前に存在する人間関係のトラブルや軋轢があり、このこと自体は成長していくうえで大事なもの。いじめ「根絶」や「撲滅」と称して、こうしたトラブルまでなくしてはならないし、なくせるものではない。

 2.いじめを上から「なくす」のではなく、トラブルや軋轢に寄り添って人間関係の作り方を学ばせ、いじめに変化した場合には早期に対応してエスカレートを防ぐことに、学校や教育者は力を入れるべき。エスカレートしていく過程で、「いじめの人間関係」が作られいじめの「正当化」や「自己目的化」が起こり、加害者は歯止めがなくなっていく。

 3.いじめの深い原因は、トラブルや軋轢をいじめに変化させる要因にこそあり、それは加害者が様々な理由からいじめを「必要としている」ということである。これは特別な子どもにのみ存在するものではなく、普通の子どもにも、大人であっても起こりうる。

 4.いじめ問題の解決・改善策は、加害者になりうる人が、いじめを、また「いじめの人間関係」を必要としない環境をどう作るかにある。学校では、子どもたちの友人関係のありかたについて「こうあるべき」という規範を再考し、クラスという単位の在り方も相対化することが必要と考える。

《前半部分の項目》

 【「いじめ」は根絶可能か】


 【いじめのエスカレート】

  T いじめの始まり 〜表面的な「原因」〜

  U いじめのエスカレート

    1)いじめの集団化 〜「いじめの人間関係」〜
    2)いじめの正当化 〜「みんな仲良く」の罠〜
    3)いじめの自己目的化 〜依存症としての「いじめ」〜


(以下本文)
【「いじめ」は根絶可能か】

 いじめの問題は、これまでに何度も社会問題として注目されています。私が高校生の頃にも、深刻ないじめの事例が相次ぎ、社会的な注目を浴びました。
 こうした問題が注目されるときに、しばしば「いじめの『撲滅』」や「いじめの『根絶』」という言葉が使われますが、私はこれは正しくないと考えます。
 なぜなら、いじめが起きる土台には、クラス内、学校内、クラブ内などでの人間関係の軋轢があるからです。このこと自体は、集団生活上避けがたいものですし、子どもたちにとっては、人間関係づくりを学び、成長する大事な機会であるからです。いじめを「根から絶つ」というような考え方では、表面上トラブルのない「みんな仲良し」幻想を子どもたちに押し付けることになり、かえってトラブルの潜在化、陰湿化を起こすものであると思います。
 文部科学省も「深刻ないじめは、どの学校にも、どのクラスにも、どの子どもにも起こりうる」と認めています。教育現場に必要なことは、いじめを「なくす」という視点ではなく、当然起こりうるであろういじめの発生を早期に見つけ、適切な制止と介入を行い、大津の事件のような最悪の事態、また金銭の略取、傷害、その他被害者が心身に深い傷を負うようないじめのエスカレートを阻止する、という視点であると考えます。できれば、いじめが深刻化する前に介入し、いじめの解決を通じて、子どもたち、特に加害者側の子どもが反省し、人間関係の作り方を見直す契機にすることができればと思います。
 一部で行われているような、いじめの報告が「ない」ということをよしとするような評価の仕方は、かえっていじめを助長するものです。

【いじめのエスカレート】

 では、教育現場が制止しなければならない「いじめのエスカレート」について、少し考えたいと思います。

 いじめがエスカレートすると、どのような結果になるか、ということは、多くの事例に表れています。自殺、暴行による死、これらはもちろん最悪のものですが、傷害、金銭の略取・恐喝、犯罪行為の強要、事実無根の噂を流しての社会的孤立など、いじめが何らかの理由で終わっても被害者の体と心に深刻な後遺症を残す事態に結びつきます。ここまでエスカレートしたものは、もはや「いじめ」と呼ぶべきものではない、重大な人権侵害であり「犯罪」として対応すべきものです。学校で抱えきれるものではなく、警察や司法の介入もやむを得ません。

 しかし、いじめがここまでエスカレートしたうえで解決されても、被害者には大きな傷が残るでしょうし、加害者も、いじめについて反省し、人間関係づくりを見直すという成長は難しくなります。ゆえにこそ、教育現場ではいじめのエスカレートを防ぐことが重要であると思います。いじめがなぜ起き、いかにしてエスカレートするか、私の考えを述べたいと思います。

 T いじめの始まり〜表面的な「原因」〜

 先に述べたように、いじめの土台には人間関係の軋轢があります。具体的なトラブルを伴うものもあれば、そうしたものがない一方的なものもあります。
 具体的なトラブルを伴うものとしては、例えば友達グループで何らかの理由で対立や孤立が生じ、いじめに発展するケースなどがあります。こうしたものでは、そのトラブルを解消することでいじめの予防、解決の可能性がある一方で、トラブルからいじめに発展する変化をとらえることが難しく、教師などが「友達グループ内のトラブル」と見過ごしてしまうおそれもあります。
 具体的なトラブルがない軋轢というのは、俗にいえば「むかつく」ということです。相手の言動、行動、あるいは存在に対して、加害者側が不快を感じ、攻撃の対象とするものです。極端に成績が悪い、あるいは良い、身なりが変わっている、しゃべり方や言動、中には理由が加害者側もわからず、とにかくウザイ、ムカツク・・・これらは加害者側の主観であるためにいじめる理由が見えにくく、予防や解決は困難です。とにかく制止し、そのいじめの行動が不当であることを理解させるしかないと思います。(また、中には、被害者側の子どもが実際に周囲に不快を感じさせる言動や行動を取っている場合もあります。そうした場合には被害者側の子どもへの適切な指導も必要と思います)

 こうした人間関係のトラブルが、いじめの土台にあることが多いと思います。個別の事例でみた場合、これらのトラブル自体がいじめの「原因」とされることも多いと思います。しかし、それは表面的な原因であり、後述しますが深層の原因ではないと思います。これを「原因」ととらえてしまうと、いじめを抑止するためには子どもたちの人間関係全体を監視・管理すべきというおかしな方向になるか、人間関係のトラブルは避けがたいのだからいじめも避けられない、という不可能論になってしまいます。

 いじめの深層の原因は、こうしたトラブルをいじめに転化させる要因にこそあると思います。「大人ならば、人間関係のトラブルを適切に処理できるから、いじめに至らない。いじめの原因は子どもたちの人間関係づくりが未熟であるからではないか」という見方もあるでしょう。私も、子どもたちが人間関係づくりが未熟であるためにいじめに至ってしまうということは大いにあると思いますが、大人社会でもいじめは存在します。「未熟さ」が原因である、というのはすこし保留したいと思います。

 U いじめのエスカレート

 「トラブル」から「いじめ」へと転化し、それがさらにエスカレートしていく原因を論じる前に、エスカレートする過程でどのようなことが起きるのかを考えたいと思います。

 1)いじめの集団化 〜「いじめの人間関係」〜

 いじめの過程において、被害者をいじめることを前提とした人間関係が形成されます。深刻ないじめ事例のいくつかに見られるようにのように、ヒエラルキーや役割分担が存在する、組織的ともいえるいじめグループが作られることもあり、言いだしっぺと追従者、そして多数の傍観者というようなおおざっぱなものもあります。また、被害者を排除することを前提にした人間関係もあれば、被害者を加害者たちのグループに囲い込み、いじめ続ける人間関係の場合もあります。相手を排除しきれない学校やクラスという単位の中では、両者の性質を兼ね、被害者を関係に取り込みつつ排除し続けるというケースもあります。
 こうした被害者を含んだ「いじめの人間関係」がいったん作られてしまうと、それが大きく壊れるような事態にならない限りいじめの解決は難しくなります。教員などが一旦制止しても、またしばらく経てばいじめが続くということになります。(逆に言えば、クラス替えなどで人間関係が変わると、いじめが解消する場合もあります)

 そして、いじめの人間関係のもとで、いわゆる「集団心理」でいじめが拡大、再生産されることになります。加害者がグループの場合は、相互にいじめをエスカレートし合い、より悪質、残酷ないじめへとつながることがあります。煽られる形でいじめに追従する者も、また、自分がいじめの次のターゲットになることを恐れ、いじめの追従者や傍観者となる者もいます。そして一たびこの人間関係が形成されると、それを変えようという動きに対して、強烈な抵抗がなされます。とりわけ被害者を集団に取り込んでいる場合には、被害者が逃げ出せないよう徹底していじめが行われ、報復への恐怖から被害者がいじめを解決しよう、あるいは逃げようという気力をも奪ってしまうことがあります。また、追従者、傍観者がいじめから脱落したり、被害者に手を差し伸べるならば、その人をも攻撃対象となることがあります。いじめの人間関係はいじめの加害者・被害者だけでなく、追従者や傍観者を含んでのものであり、どこかにほころびが生じればいじめをストップできることもありますが、いったん形成されると、当事者でそれを変えることは難しくなります。
 エスカレートしたいじめが問題となった時に、被害者や傍観者の態度が問われることがあります。「被害者が拒絶していれば」「誰かが止めていれば」というものです。いじめの初期段階で被害者が拒絶、抵抗することは、いじめの正当性を崩し、いじめによる「楽しさ」を阻害し、いじめの人間関係を阻害することでいじめがエスカレートすることを防ぐ意味はあると思います。第三者が強く制止した場合も同じです。「いじめにはきっぱりと拒絶を」「勇気をだして『いけない』と言おう」という指導を行うことは正しいと思います。しかし、いじめの人間関係が出来上がってしまったあとでは、その人間関係を壊す行為に対しては、より強い報復、いじめにつながり、被害者や傍観者が声を上げることが難しくなります。そのような段階で、被害者に「なぜ拒絶しないのか」「なぜ親や教師に相談しないのか」というのは、かえって被害者を委縮させ、解決を遠ざけることとなります。まして、被害者が拒絶していない、抵抗していないからいじめではなく遊び、ふざけであるというのは明らかな誤りです。

 2)いじめの正当化 〜「みんな仲良く」の罠〜

 いじめの事例では、加害者側がいじめを正当化する言動を行うことがあります。いじめの表面的な「原因」となっているトラブルや不快を感じる被害者の性質や言動などを以て「あいつが○○だから、○○したから」と言っていじめを正当化するものです。加害者側が「あいつに○○されたから」と「被害者」を主張する場合さえあります。そのほとんどは「言いがかり」というべきものであり、被害者側に落ち度がある場合でも、それといじめは明らかに均衡を欠いているものです。

 加害者側が立場や人間関係を利用して、いじめを正当化しようとする場合もあります。「(被害者)が○○なので注意した」「(被害者)のためを思って」というようなものです。大人の職場であれば、パワーハラスメントと呼ばれるものです。仕事の出来が悪い、職場の和を乱しているなどという正当化が行われます。
 この様ないじめの正当化がいじめをエスカレートさせる理由は、いじめを正当化する上であげられている「(被害者側の)理由」は、外見や立ち居振る舞いなど、加害者側の主観的なものが多く、被害者側が「改善」していじめの「理由」をなくすことが困難であるためです。そのため、いじめは延々と続けられることになります。また、その正当化のやり方次第では、周囲の人を追従者、傍観者にし、極端な場合にはクラスや職場が一丸となって一人をいじめるというようなことにもなります。時として、いじめを正当化する「理由」が被害者自身を縛ってしまうこともあります。「自分がいじめられるのは仕方がない」とあきらめてしまったり、友達グループがいじめのグループに転化した場合などは、居場所を失いたくないがために加害者の言いなりになり、(一見自ら進んで)いじめられる役割を引き受け、いじめを受け続けることもあります。こうした状況が続けば、被害者は心身に大きなダメージを負うことになります。

 留意すべきは、「いじめ」の反対に「仲良く」を対置することが、こうしたいじめの正当化につながる場合もあることです。前述したように、いじめの表面的な「原因」のうち、具体的なトラブルのないものは、被害者が何らかの「異質性」をもっていて、それに対して加害者が悪感情をもっていることに始まることが多くあります。加害者の主観的感情であり、被害者にはどうしようもありません。しかし加害者側はそのことが理解できない中で、「みんな仲良くすべき」ということが押し付けられたならば、「(被害者)は○○だから仲良くできない」→「仲良くできない(被害者)が悪い。(加害者)は悪くない」といういじめの正当化が生まれます。○○に入る理由には「優等生ぶっている」「動きがトロい」「話し方がムカツク」「話題についてこない」「休み時間に一人でいるのが気持ち悪い」など・・・

 また、いじめの正当化は、しばしば他人に対する以上に、加害者が自分に対して行うものであることにも注意が必要です。とりわけ、自我が育ち、善悪の分別がある程度つくような思春期以上の子どもたちでは、この傾向が強くなります。いじめの加害者が「誰に対しても粗暴で道徳心や規範意識に欠ける」ような子どもばかりではないことは、事例が示しています。一面では並みに善悪の区別や道徳心を持っているような子が、被害者に対してのみひどいいじめを行うようなこともあります。このような時、加害者は意識的か無意識的かにかかわらず、「被害者が悪い、自分は悪くない」といういじめの正当化を行い、被害者を自分が持っている道徳心の枠外において、傷つけることへのためらいをなくしているといえます。アメリカの社会学者のデービッド=マッツアは、非行を繰り返す少年たちの心理に、自分が悪いことをしている、加害者であるという意識を打ち消す合理化・正当化の心理的技術があることを指摘しました。(こうした心理的な合理化・正当化を「中和」といい、また善悪の間を漂流しているという意味で、マッツアの理論を「漂流理論」といいます)いじめにおいても同じであると思います。
 単に中和するだけでなく、いじめを正当化し、自分が正しいことをしていると過信することは、いじめの加害者にとっては自尊心を高め、被害者を見下し、傷つける言動や行動を取ることへのためらいを失わせます。そして、そうした見下しや攻撃の言動・行動を取ること自体が、さらにいじめを正当化(自分は正しいからこういう行動を取れる)し、自尊心を肥大させ、精神的な充足や安定を得て、ますますいじめの行動を後押ししていくという循環に陥ります。そういう中で、いじめをやめる、いじめができなくなることは、自分の正しさ、自尊心の裏付けがなくなることであり、いじめを止めることに強い抵抗を示し、いじめを続行、エスカレートする心理ともなります。


 3)いじめの自己目的化 〜依存症としての「いじめ」〜

 「いじめの自己目的化」というのは、私が考えた表現で一般的、学術的なものではありませんが、いじめのきっかけである人間関係の軋轢や、いじめを正当化する理屈などが忘却され、加害者にとっていじめをすること自体が目的となり、いじめが常態化することをあらわします。語弊のある表現ですが、加害者が「いじめ」に依存している状態です。
 いじめを行うことは、加害者の心理にとってどのような意味があるでしょうか。いじめというのは、加害者側にとっては快楽になります。嫌いな相手が困り、傷つくことが楽しい、いじめた相手が服従することによる支配感、自分の願望が達成される達成感、抵抗を受けず暴力をふるうことによるフラストレーションの発散、優越感など。また、よく「ゲーム感覚」と言われますが、いじめグループにとっては楽しい集団での遊びでありコミュニケーションであることがあります。誰かをいじめることで、グループの結束が高まり、個々人のグループへの意欲も高まることがあります。このようなゲーム感覚のいじめは、いじめという認識を感じさせない効果もあります。自分の行ういじめに対して仲間がいる、多くの追従者や傍観者がいて被害者が孤立しているという状況も、自分の影響力に対する満足感を引き出すものでしょう。金品の略取を伴う深刻な事例では、被害者からお金や物を奪い、それを使う快楽もあります。また、「いじめの正当化」で述べたように、被害者を見下し、攻撃を繰りかえすいじめの行為自体が、加害者の自尊心を高め、精神的な充足や安定、高揚感を得るということもあります。
 いじめによって得られる快楽は、アルコールや薬物による快楽と似ていると、私は思います。いじめの自己目的化というのは、薬物やアルコールに依存するように、加害者がいじめの快楽に取りつかれてしまった状態です。
 薬物やアルコールは、次第に、同じ分量や回数では快楽が得られにくくなり、摂取量が次第に増え、ますます依存していくという傾向があります。(これを「耐性」といいます)また、それが得られない状態ができると苛立ちや不満を覚えるようになり(いわゆる「禁断症状」)、道徳心や損得勘定を狂わせ、不品行で社会的地位を自ら毀損したり、暴力や窃盗といった反社会的行動を起こすことがあります。これは脳の作用と関係があり、薬物を伴わない、ギャンブル依存や性依存など行為依存症でも同じようなことが起きると言われています。今回の大津のいじめ自殺事件では、虫の死骸を口に入れるなど加害者グループが行った、語るもおぞましいいじめ行為のいくつかが報道されています。そして、被害者の死後も机や遺影を辱めるなど被害者への「いじめ」は続行していたとも報道されています。これは今回の事件が初めてではなく、過去の重大ないじめ事件でも類似の事実はありました。私は、そこに、依存症患者の取る行動と似た、精神のバランスを崩した病的なものを感じます。

 いじめがエスカレートする過程で、加害者は被害者をいじめるだけにあきたらず、いじめの対象を他の子どもにも広げることがあります。また、被害者が不登校になったり、教師に制止されるなどしていじめがしにくい状況になると、強い苛立ちを覚え、その苛立ちを、被害者や他の子へのよりひどいいじめに向けるということがあります。例えばクラブ活動で孤立した子が、いじめによってクラブをやめるに至っても、加害者グループはいじめを止めることなく、他の子をいじめの標的としたり、「やめたことが気に食わない」と被害者をさらに追い打ちするようなケースがあります。やめさせたいからいじめをしていたにも関わらずです。この状況を見るとまるで、薬物の禁断症状のようにいじめをせずにはいられないような心理状態に、加害者は追い込まれています。そして、被害者側にとってはより深い絶望や恐怖となって続きます。

 また、過去の深刻ないじめの事例では、いじめがエスカレートする中で、加害者はいじめを正当化する理屈をも忘却し、被害者をいじめることのみに執着する行動をとり、より強い刺激を、いじめの快楽を追及するかのような行動をとっている事例がいくつもあります。死に至るような暴行、多額の金銭略取、性的暴行、被害者家族への脅迫や嫌がらせなど、不幸にして、このような段階になっていじめが発覚し問題となってようやく解決の可能性が出るケースもあります。その理由の一つには、こうした状況で加害者は、いじめについての良心・道徳心だけでなく損得勘定をも麻痺させ、自分の行為がもたらす結果や自分への不利益の可能性を忘却しているためです。例えば、ギャンブル依存症になった人が、仕事をさぼることの不名誉・不利益よりもギャンブルの快楽を求め、お金が無くなってギャンブルができなくなると、刑罰を受けるリスクがあるにもかかわらず極めて短絡的に犯罪などに手を出してしまうようなものです。「これ以上は『やりすぎ』ではないか」「相手を傷つければ、いじめが露見し自分が制裁を受けるのでは」「指弾され家族や友人や自分の将来を失うのでは」そうした残る良心や損得勘定よりも、いじめがもたらす快楽や昂揚感をやめられない、というものです。(中にはこのような損得勘定のもとエスカレートさせずにコントロールされているいじめもありますが、そのほうがより陰湿ではあります)ある事例では、被害者の自殺を聞いたいじめの追従者が自分へ降りかかる社会的制裁を恐れていたのに対し、いじめの中心の加害者グループは公然と被害者の死を喜び、被害者をネタにふざけ、けなし続けていたというような事例があります。これも加害者の良心の欠落、想像力の欠落というだけではなく、社会的制裁を気にするよりもいじめの「成果」に対する達成感、昂揚感に酔いしれていたように思えます。

 いじめが自己目的化し、良心も損得勘定も見失うというのは、道徳心や想像力や思慮が未成熟な子どもに限られるものではありません。大人社会のいじめにおいてもしばしば見られます。例えば、職場におけるいじめの例として、取引先との約束など必要な情報を被害者に渡さず、仕事で失敗させたり恥をかかせる、そのことを口実に職場内で攻撃するというようなものがあります。もちろん、取引が壊れたりすれば会社にダメージとなり、加害者もその立場に応じて影響をうけます。まして、事が露見すれば職を失いかねません。にもかかわらず、被害者が苦しみ、孤立するといういじめの成果を求めてそのような行為に及ぶのです。海上自衛隊の自衛艦で起きたあるいじめ自殺の事例では、加害者はいじめの一環で、被害者が仕事で扱うレーダーの設定を不正に操作していたというものまであります。一つ間違えば、衝突事故の危険性もあったといいます。自衛官としての使命や規律からいって、二重三重にありうべからざる行為が、いじめをするために行われていたのです

 このようないじめの自己目的化の深刻なところは、あらゆる歯止めが利かなくなり、いじめが「犯罪」の次元にまでエスカレートして被害者の心身を徹底的に傷つけるものになるということ、そして加害者も、いじめのために正常な判断力や情動を失い、「犯罪」の加害者となることで多くを失うということです。教育現場におけるいじめでは、このような事態に陥ることを徹底して防がなければなりませんし、不幸にしてそのようなことが起きたならば、警察や司法とも協力しつつ、被害者の心身の回復と、加害者となった子どもへも、罪に向き合わせるとともに心理的な回復をはかる対処を行うべきであると思います。
posted by 向川まさひで at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 政策・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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