2012年10月20日

いじめ問題についての所感A

いじめについての所感、3分割の2つ目です。

《後半の項目》
V いじめの深層の「原因」〜いじめが「必要」とされる理由

 1)心の鬱屈を処理しきれない状況

 2)異質なものに対する受け止め力の不足

 3)役割や立ち位置への欲求

 4)競争的・序列的価値観

W「いじめ」問題を解決していくには

 1)「みんな仲良く」規範の再考

 2)クラス・学年を「相対化」すること

最後に


【補足@ いじめられるほうに原因がある?】

【補足A ふざけといじめ】



V いじめの深層の「原因」〜いじめが「必要」とされる理由

 ここまでいじめのエスカレートについて論じてきましたが、そこに潜む、いじめのより深い原因について考察したいと思います。対人間のトラブル・軋轢は、家族であれ友人であれ、人間関係を作り生活するうえでつきものです。その解決策は、積極的にトラブルを解消しようというものから、消極的に距離を置く、離れるというものまでありますが、それらの解決によらずに、なぜ「いじめ」になり、エスカレートするのでしょうか。
 私は単に「子どもだから未熟」であるというだけでないと考えます。先に述べたようにいじめを通して加害者側は人間関係の確認、自分の正しさの確認、フラストレーションの発散など、いじめによる「報酬」を得ています。これが、加害者がいじめを通して求めるものであり、加害者にいじめを指向させる理由となるものです。
 いじめのより深い原因となるのは、加害者がこのようないじめを必要としていること、そしてそうさせる条件があることであると私は考えます。

 では加害者が「いじめを必要とする」条件とはどのようなものでしょうか。以下に考察したいと思います。

 1)心の鬱屈を処理しきれない状況
  心に抱える悩み、さまざまな外部からのストレス、こうしたものが心に鬱屈を 生みます。人を成長させる大事な要素でもありますが、時として処理しきれなくなると、他人に対する暴力・暴言等の形で現れることがあります。ストレスの処理に慣れておらず、自我の未成熟な子どもであればなおのことこうした傾向が出やすくなります。心の鬱屈が他者への攻撃につながる、というのは「いじめ」に限ったとではなく、さまざまな非行や問題行動に共通しているものでもあります。
 ただし、普通は他人を傷つけたなら、拒絶や抵抗にあい、また第三者の非難にさらされ、そして自己嫌悪の感情も生じます。ところが、ある人を攻撃しても拒絶や抵抗も少なく、第三者も非難せず、良心もあまりいたまない、というような状況になった時、その人に対するいじめを自分の鬱屈を発散させる手段として選んでしまうということになります。
 その状態が続くと、「いじめの自己目的化」で触れたような状況に陥ってしまいます。だからこそ、教育現場ではそうならないような指導が必要ですが、それはいじめを「抑え込む」という姿勢のみでは解決できず、加害者の鬱屈にも向き合い、本人にもそのことを自覚させるような指導が必要と考えます。

 2)異質なものに対する受け止め力の不足
 学校、とりわけ公立小中学校は、さまざまな背景、発達度を持つ多様な子どもたちが一緒の空間に通っています。他方で、同質性や集団性を求める文化が育ちやすいところでもあります。地域の文化や、その地域で多数を占める社会階層の文化が学校の文化に反映されやすいという側面もあります。

 子どもは、乳児の時にまず「快」と「不快」の感情を持ち、世界をその二つで認識するといいます。そして、父母、家庭、地域、保育園・幼稚園・学校などと活動の範囲が広がっていく中で、感情と認識が多様になっていきます。すべての子どもが一様に発達するわけではなく、経験のありかたによって異なります。人間関係を作ることも、こうした中で培われます。学校での人間関係は、それまで育ってきた家庭や小地域などの人間関係とは違う、異質さを持つ子どもたち同士が、子どもたち自身で人間関係を作っていく場となります。この関係づくりは、決して自然にできるものでも、「仲良く」ばかりでできるのもでもありません。時として軋轢をも生みながら、人間関係を作ることを学んでいくものです。ここでジレンマとなるのは、異質な相手を理解して人間関係を作るためには、経験と学習で認識を広げること、そしてある程度の心理的余裕が必要となりますが、ほとんどの子どもたちはどれも十分に持っていない中で、人間関係を作っていくということです。

 子どもたちは、それまで自分が培ってきた感情や認識にあてはまる中で人間関係を作ることを志向しがちになります。これは必ずしも悪いことではなく、そうした親密な友達グループの関係のもとで培われる人間的発達も大いにあります。ただ、しばしば自分の感情や認識に当てはまらない異質な相手に対しては拒否的な態度をとる原因となることがあります。また、家庭や地域での大人たちの価値観・文化がその認識に影響を与えていることがあります。それが閉鎖的・同質志向的なものであれば子どもたちにも強く影響しますし、そこに人種・民族的偏見や性的偏見などが含まれていることがあります。子どもたちは、そうした主観的な認識から来る不快感や苛立ちを、客観的に受け止める力はまだ持っていません。主観的な感情をそのまま相手にぶつけてしまうことがあります。過去のいじめの事例では、「ムラ社会」的な風土の残る地域の学校で、他地域からの転入生が何人も他の子どもたちからあらゆる難癖をつけられていじめを受けたというものがあります。
 ある程度成長した少年、青年でも同じことが言えます。意見や感覚を異にする相手に対して、不快やいらだち、あるいは嫉妬の感情を覚えることがあります。その感情を受け止め、客観視し、自分の感情が主観的なものであると認識して一歩引いて、相手とつきあうということは、やはり経験や学習、心理的余裕がないとできないことです。それがなければ、自我が不安定な年代では、異質な相手の言動や振る舞いに感じる嫌悪や苛立ちを、自分に対する攻撃や敵意と解釈し、「自己防衛のために」相手を攻撃してしまうことがあります。

3)役割や立ち位置への欲求

 10代に入り思春期を迎える年齢になると、自分が何者であるのか(アイデンティティ)を意識し、自尊心も芽生えてきます。そうした感情は、自分の役割や立ち位置に対する欲求、こだわりとして表れてきます。
 思春期になると、次第に親からの分離を志向し、家庭外での人間関係や立場に関することのウエイトが大きくなります。(もちろん、すべての家庭でそうではなく、その子が家庭内で一定の確固とした役割を担っている場合もあります)その中でも、学校のクラスや友人関係での立ち位置や役割が占める位置は大きなものです。ただし、そうした立ち位置や役割は社会的に位置づけられたものでもなければ、明確な基準を持つものでもなく、いわゆる「空気」で決まるものであるため、その立ち位置や役割は不安定なものとなり、時として自分の求める立ち位置や役割と、実際に自分に期待され割り当てられているそれらが違うこともあります。また、その立ち位置や役割には、優劣や序列を伴うことがあります。(若者文化を論ずる文脈では、友人関係の中で割り当てられる役割を若者自身の言葉で「キャラ」と呼び、それに依拠したコミュニケーションを「キャラ的コミュニケーション」と呼びます。また、一定の立ち位置が決められた個人やグループ同士で相互に意識される序列関係を「スクールカースト」と呼びます)

 立ち位置や役割を意識して振る舞うことは、円滑なコミュニケーションをにつながり、クラスや友人関係での親密さを強めることにもなります。しかし、自分の求める立ち位置や役割と実際のそれらが違っている場合や、立ち位置そのものの不安定さは、心に葛藤を生むこととなります。そのこと自体は悪いことではなく、葛藤を乗り越えることが成長につながります。ですが、その過程で他人への攻撃やいじめにつながる場合があります。自分の求める立ち位置や役割と、自分に割り当てられているそれが違う場合、その葛藤を他人に向け、自分の立ち位置を「奪っている」と思う人を攻撃して引きずりおろそうとしたり、またいじめの中心となることで友人関係内で自分をより上位の位置におこうとしたり、逆に立ち位置や役割に過剰に適応して、自分より「下位」にあるとされる人へのいじめを行い、それを通して自分の立ち位置の強化と自分が属するグループの結束、求心力を高めようとすることもあります。また、立ち位置や役割が不安定なものであることの裏返しとして、「場の空気」を読まずそれに乗らない人、その「キャラ」から外れる振る舞いをする人に対して、アイデンティティを守るために強い同調圧力による攻撃、いじめが加えられることがあります。

 
 4)競争的・序列的価値観

 学校での「競争的価値観」というと、受験競争やそれに伴う序列、ということがまず連想されると思いますが、ここではそうしたものに限定するものではありません。子どもたちを取り巻く環境として、子どもたちが他者からの序列的な「評価」を常に意識せずにはいられない状況を指します。それは勉強やスポーツだけではなく、友人関係の豊富さ、日常生活上の立ち居振る舞い、ファッション、ボキャブラリー、趣味、流行物への理解など、さまざまです。自尊心が育っていく過程で、人間関係に序列をつけ、自分は○○より上、あるいは○○よりは下、という意識を持ち、優越感や劣等感を感じるということは、ある程度は必然的に起こることです。こうした感情をどう乗り越えるかが、大事な発達課題でもあります。
 しかし、現代はメディアやネットなどを通じ、他人との相対的な序列意識を刺激する情報があふれている時代です。また、もう一つ現代の特徴として、先述の「キャラ的コミュニケーション」のように、「人格」が類型化され評価され序列づけられる、という現象、言い換えれば「人格」を値踏みするという見方が社会に入り込んでいることがあります。思春期頃の少年・少女にとって、前項で述べたような自分の立ち位置や役割を確たるものにするうえで、こうした情報に大いに刺激されるものになります。しかし、「人格」の評価は学問や運動のような客観的指標はもちろんなく、他者からどう見えるか、ということにかかり、時として周囲の偏見や決めつけがそれを決定するということになります。(若者の社会現象として一時き取り上げられた「便所飯」という都市伝説めいた話がありますが、そこに出てくる「人目のないところが落ち着く」「一人でいることよりも『一人でいることを他の人に見られる』ことの方が嫌だ」という感覚は実際にあると思います)

 他人からどう見られるかを強く意識し続け、そのストレスに対して、自分の位置を確かにするために自分より下位である人を設定して攻撃し、いじめを通して自分が相対的に優位な人間関係の中にいることを確認し、いじめの正当化で他人に対して被害者に対する自分の優位を確認するというようなことがおきます。

 また、子どもの競争、序列意識は、クラスや学年といったごく狭い範囲で行われがちであることも注意すべき点です。狭い世界であるがゆえに、ごく小さな、つまらない差異や序列に対して敏感になる傾向が生まれること、そして、競争の敗者や下位者がリタイヤしたりよそに脱出することが簡単ではなく、固定化されがちなことがあります。また、競争や序列を意識する相手が身近にいて、しかも、競争・序列の対象が客観的なものでないということであれば、競争意識は自分の向上をめざす健全なものではなく、相手を引き摺り下ろして自分を上に立てようとする下向きの競争意識になりがちです。そうしたことも、いじめにつながる要因となります。


 さて、学校の例ばかりを挙げましたが、学校を職場に置き換えれば大人社会のいじめでも通じることが多いと思います。
 いじめのより深い原因は、加害者がいじめを必要としていることにある、先に書きました。そして、その条件として4つの点について考察しました。この4つの条件は、ある程度までは子どもの発達上の課題となるものです。そして、大人でもふりかえって思いあたる節のあることが多いのではないでしょうか。
 心に余裕がなければ、他人に対する態度も粗雑になり、その場にいない相手を大声でくさしたり、いらいらした感情が先に立ちがちです。異質なものに対する寛容さという点でも、「生理的に無理」とか「○○とはそりが合わない」という感情を完全になくせる人は多くないと思います。また、集団の中で生活している限り、役割や立ち位置への欲求や、優越感・劣等感を感じることは自然なことであると思います。集団で気に入らない人の悪口を言い合って楽しく盛り上がるような場面もなきにしもあらず、だと思います。
 私も「そりが合わない」人は元の職場にもいましたし、共産党の中にだっています。ですが、共通の目的のためにチームワークを作ることは当然のこととして行動していますし、他の職業のみなさんもそうだと思います。また、私も気持ちに余裕がないときは、嫌いな相手をくさす毒舌が口から次々と出てくることもあります。もちろん、私は気に入らない誰かをいじめようとはおもっていません。ですが、私の気持ちといじめの加害者の気持ちは、断絶したものではなく連続したものであると思います。

 いじめの問題がクローズアップされるたび、加害者側の特異な言動や行動が注目され、深刻ないじめ事件は、特異なパーソナリティの加害者が起こした犯罪であるかのように考えられる場合があります。たしかに、きわめて深刻・悪質ないじめの事例には、加害者側に人格障害や心の病の存在を疑わせるものもあります。しかし、多くのいじめの原因を考察していくと、そうではなく、「普通の」子どもが、人格形成や集団づくりの発達課題にぶつかり、正しく乗り越えられずにいじめにつながっていることがみえてきます。

posted by 向川まさひで at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 政策・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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