2012年10月20日

いじめ問題についての所感B

3分割の最後です。もうしばらくお付き合いを・・・

[この文章を作るにあたって、参考にさせていただいたサイトをご紹介します]

武田さち子さん 「日本の子どもたち」
http://www.jca.apc.org/praca/takeda/index.html
武田さんの、子どもたちへの温かいまなざしと子どもを取り巻く日本社会、
大人たちへの鋭い視点が素晴らしいサイトです。



W「いじめ」問題を解決していくには
 いじめの問題の解決策は様々であり、これさえあれば、というような特効薬はないと思います。ここでは、これまでに述べてきたような前提に立ち、わたしなりの解決・改善の案をお話ししたいと思います。先に述べたように、私は、いじめの深層の原因には、加害者側がいじめを必要としているということにあると考えます。ゆえに、いじめを必要としない、とりわけ「いじめの人間関係」を必要としない関係をどう作るかという点に注目したいと思います。

 1)「みんな仲良く」規範の再考

 学校やクラス、クラブなど、さまざまな子どもたちの集団に対して、親や教師、社会は「仲良く」することを求めます。そのこと自体は悪いことではありません。しかし、その「仲良く」するということの中身が問題です。集団の中にいる子どもたちは、さまざまな背景や発達度の違いをすでに持ち、他方で異質なものを理解し、受け入れることができる経験や知識、心の余裕は、最初から持っているわけではありません。「仲良く」ということが、摩擦を起こさないよう同調・同質性を求めることになりがちです。子どもたちが集団の中でいる中で、多かれ少なかれ、軋轢が生まれると思います。その時、「みんな仲良くすべき」という規範意識が強すぎた場合、そうした「違い」を受け入れられずに、同調を求め、多数派が少数派を攻撃し、いじめたり仲間はずれにする、などということが起きやすくなります。さらに、「同調できない奴は『仲良く』できていないから悪い」「仲間外れにされたりいじめられるのはそいつが仲良くしようとしないからだ」という考え方につながり、話し合いや理解の道を閉ざすことになります。

 「コミュニケーション能力」という言葉があります。大変あいまいな使われ方をしている言葉ですが、俗には「同調能力」という意味合いで使われることが多いです。集団の「空気」を読んだ行動ができるかどうか、また同調者が多い言動や行動ができるか、という点を能力とみています。そして、こうした「同調能力」が低いと見なされた人に対しては「コミュニケーション能力に欠ける」というレッテル張りがされます。これは、子どもたち同士、若者同士のみで行われるものではなく、子どもたちを取り巻く親や教師、社会で、子どもたちに対してこのような価値判断がされていると思います。その根底にあるものは、同質性、同調に基づく「仲良く」を無条件によしとする規範意識ではないでしょうか。
 そして、このことが異質性を理由にしたいじめを生み、加害者によるいじめの正当化を生み出していると私は思います。また、いじめの正当化では、加害者の被害者に対する主観的な不愉快や苛立ち、異質さに対する違和感や抵抗を、集団から外れ、和を乱す、みんなを不快にしているという集団に対する「悪」に転化、同一化していじめを正当化するというパターンがあります。こうした自分と周囲、個人と集団との未分化な意識のありようがいじめの発生や深刻化につながっており、「みんな仲良く」規範はそれを後押しするものになっています。

 「みんな仲良く」規範を再考し、「コミュニケーション能力」の考え方も見直すべきと思います。相手の異質さを受け止め、理解すること、「反りが合わない」相手ともチームワークを取ることができること、どうしても受け入れがたい相手との接し方、考え方が違う相手とのコミュニケーション、相互理解のはかり方。もちろん、子どもたちが最初からできるわけではありません。だからこそ、学校教育・社会教育の目標として定め、集団の中での摩擦や軋轢を通してこれらの「コミュニケーション能力」を習得できるように大人が援助して行くことが必要です。そのためにも、子どもたちの集団内の摩擦や軋轢がないことをよしとする「仲良し」規範、そう振る舞うことを評価する、同調能力としての「コミュニケーション能力」という評価の物差しを、まず大人が再考しなければなりません。

これを教育目標として考えるならば、目新しいものではなく、古典に良い範があります。

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(『論語』「子路」より)」

「和する」ことと「同ずる」ことの違いを、子どもたちに経験を通して学ばせることが必要であるということです。
 注意すべきは、子どもたち自身が経験し、学ぶことを基本とし、大人からこうあるべきという建前を押し付けてはならないということです。子どもたちの間で、「嫌い」「気が合わない」「理解できない」「気持ち悪い」という対人関係の悪い感情を、「仲良くすべき」「理解すべき」の規範で押さえつけ、押しつぶすようであってはいけません。誰だって、そういう感情を抱くときがあります。抱く人がいます。その感情を否定するのではなく、自分自身が認識し、受け止め、できればその理由を客観視して昇華する、そういうことができるように支援することが必要であり、そのためには、まずそうした悪い感情をはきだし、自分の中で受け止められるような心のコントロールを学ばせることが必要です。(いじめとは少し違いますが、私は「差別」についての教育にも、こうした視点が必要と考えています)

 2)クラス・学年を「相対化」すること
 学校でのいじめの多くは、クラスで起こっています。学校のクラスというのは、本人の意思によらずに所属が決められ、(私立の小中学や、高校では少し違いますが)年齢以外条件は多様な発達段階の生徒が集まっており、メンバー間には基本的に序列は存在しない、ただし様々な力関係、力の強弱は存在する、学習や人間関係づくりもクラスを通して行われる、という点で、少し特殊な集団です。

 子どもたちにとっては、生活上大きなウエイトを占めるのがクラスです。「小宇宙」とまで表現する人もいます。それはややオーバーだと思いますが、ムラ社会的コミュニティに近いと言えるところはあります。クラスでのいじめを減らしていくためには、こうしたムラ社会的コミュニティとしてのクラスを変える必要があると思います。いじめの原因について論じた部分でいくつか例を挙げましたが、クラスという枠組みに子どもたちをまるごと囲い込んでしまっていることが、いじめにつながる問題を生み、エスカレートさせている側面があります。クラスが子どもたちをまるごと抱え込むコミュニティであることをやめ、子どもたちにとっての社会の一つに位置付けることが必要です。

 ムラ社会的コミュニティが変化していく要因は、人の移動、他者との交流の深まりです。構成員個人の意識としては、ヨソの世界を知り、自分たちのコミュニティの価値観や人間関係を相対化することが重要です。同じように、クラスを相対化することで、クラスの村社会的な部分を変容させ、それに関連するいじめを解消していくことができると思います。具体的には、クラスを小規模化し、1クラス20人台の少人数学級を基本にして、総合学習や委員会活動、学校行事などはクラスの合同や横断、縦割りクラスなどを常態化し、クラスの「自己完結性」を弱め、人間関係がクラス外に広がることをあたりまえにすること、また、学校外のサークルや社会教育の充実(まずは、競技人口の少ないスポーツや文化部活動、また少子化で学校単位の組織が難しくなったクラブの地域チーム化などから始めればと思います)などが考えられます。これらを通して、「学年」や「学校」という枠組みも相対化することができるのではないでしょうか。
 他の社会とも日常的につながることで、ある社会の価値観がほかでは異なる場合があることを経験し、クラス内での場の空気や自分の立ち位置や優劣の感情にとらわれすぎないで振る舞うことを身に着けられるのではないでしょうか。また、もしいじめが発生した場合でも、クラス、学校が絶対的な世界であるのと、そうでないのとでは、被害者の心にかかるプレッシャーは後者がずっと軽くなると思います。
 すこし違う視点でいえば、クラスを相対化することで、子どもたちを縛っている競争的価値観もまた、前向きな方向に変えられるのではないかと思います。クラスという狭い世界で自分の立ち位置にこだわるからこそ、ちょっとした差異が気になり、小さな優劣に大きく気持ちが揺さぶられます。そして、優越感・劣等感を刺激する対象が身近にいて、クラス内の立ち位置、「評価」から逃れられないとき、自尊心のために他者をいじめ、引きずりおろそうという気持ちにつながります。相対化することで、競争相手、優越感・劣等感を感じる相手はかならずしもそばにいるのではなく、またクラスの評価も絶対的ではないと理解できれば、優越感や劣等感、競争心はより広い世界を意識した方向に向かうのではないでしょうか。クラスや学年といった小さな枠組みで競争してもつまらない、広い世界で上を向いて頑張ろう、そういう方向に持っていければと思います。
 ただ、私は、「クラス・学年を『解体』すべき」という意見には賛成できません。クラスや学年という分け方で子どもたちを分けるのは、必ずしも子どもたちの発達段階にあっているとは言えず、上述のような問題点を引き起こしていることもたしかです。しかし、子どもたち一人一人の発達段階に合わせた教育・指導を公教育で行うというのが、現実的には不可能ですし、発達段階を客観的・正確に測り、大多数が納得できる指標というものもない以上、生年月日を単位とした学年、またクラスという分け方は、方便としてベターなものであると思いますし、また、多様な発達段階、価値観をもつ集団の中で人間関係を作るということ自体は、発達上必要な経験であると考えるからです。
 (私自身の経験ですが、いじめにあっていた時、学校では打ち解ける友人は少なく、休み時間でも一人でいて、本を読むことなどが多い、私をいじめる側は「気持ち悪い」と非難し、「一人ぼっち」とさげすみました。私には、まったく理解できませんでした。塾には話の合う友達もいて、いじめられていたなかでも、私にとって救いとなりました。しかし、塾のような環境ばかりで育っていたら、私は学びえなかったことが多かったと思います。なお、中学3年生頃になるといじめはなくなり、いじめていた側ともクラスメートとしての付き合いはできるようになりました)

最後に
 大津市の事件以降、各地でいじめに対する取り組みが改めて注目されています。大和高田市9月議会でも、いじめについての防止条例の可能性を提案した議員がありました。
 いじめについて、議論が深まることは良いと思いますが、ただ、ともすれば、子どもたちの内面に立ち入ることも含めた「管理教育」的な施策を強化する方向になったり、道徳の問題と考えるような議論が注目されることが多いのが気になります。
 アンテナを張ることは大事です。ですが「いじめ根絶」と意気込んで子どもたちの内面や対人関係にまで踏み込もうとしても、現実的には管理不可能ですし、子どもたちの心をさらに追い込んでしまうことになり、かえっていじめを陰湿化、深刻にすることにもなりかねませんし、対人関係の軋轢やトラブルを経験、克服するという、成長に必要なプロセスを奪ってしまうことにもなりかねません。
 個人の道徳に帰する議論も、私は賛同できません。道徳的に言えば、いじめは、他者に対する「優しさ」「寛容」の欠如であると私は思います。
 どんな条件、環境下でも、他者に対して優しく寛容であることができる人は立派です。でも、そんな人は常に少数であり、多くの人は条件や環境に左右されます。条件や環境の問題を抜きにして、人の道徳的向上を論ずることはできません。社会全体が、他者に対して優しさや寛容を持てるような条件や環境をどう作るかを考えることが重要です。未成熟な子どもたちが、他者に対する寛容や優しさを十分に持てないことは当然ですが、子どもは大人社会の鏡です。大人が、他者に対して優しさや寛容を発揮できていれば、それは子どもたちの心の発達に大きくかかわるものとなるでしょう。
 いじめの問題を、根源的に解決しようと考えるならば、いじめを必要としない、いじめの人間関係を必要としない社会はどうしたら作れるか、を論じなければならないと思います。私は、効率性優先、過度な自己責任主義に陥っている今の経済社会の在り方を改め、個人の心の弱さを直視し、異質な人、弱い人に対して寛容さを発揮できる条件を作っていくことができる、人にやさしい社会を目指したいと思います。

【補足@ いじめられるほうに原因がある?】
 いじめをめぐる議論では「いじめられるほうにも原因があるのではないか」という議論がしばしば出てきます。私はこうした見方には賛成しません。それは「いじめの正当化」で論じたように、いじめの「理由」が被害者にある場合はありますが、それは加害者側の主観によるところが大きく、また被害者に落ち度がある場合でも、それといじめは均衡を欠くものであり正当化できるものではありません。なにより、トラブルや軋轢を「いじめ」に転化させるのは加害者の行為であり、あくまでもいじめの原因はその行為を生む加害者の精神にこそあると考えます。

【補足A ふざけといじめ】
「ふざけ」と「いじめ」は区別がつきにくいと言われます。たしかに、気心の知れた同士では、信頼関係があるからこそのどぎつい言葉や行為が飛び交うこともあり、第三者からは見分けがつきにくい場合があります。ただ、片方は「ふざけ」のつもりでも、もう一方は不快を感じている場合は、いじめにつながるトラブルとなります。言われた側が抗議や反論せず、言われ続けている場合、言われた側が言った側を孤立させいじめる場合、また言った側が抗議されたことに逆切れしていじめに発展する場合など。そして、最初はふざけであったつもりがいつのまにかいじめに転化していることもあります。
ふざけにしては度が過ぎている、と感じた場合、教師や大人は、「ふざけ」だからと見逃すのではなく、また逆に「ふざけ」をもいじめにつながるからと禁止するのではなく、「それは本当にお互い了解してのふざけなのか、相手は嫌がってるのではないか、私ならば腹が立つし第三者から見て異常に感じるぞ」と疑問を投げかけ、考えさせ、注意深く様子を見る必要があると思います。
posted by 向川まさひで at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 政策・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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