ダーウィンは「適者生存」のルールの存在を唱えるとともに、「最も強いもの、最も賢いものが生き残るのではなく、生き残るのは変化できるものである」とも言っています。実はこの2つには、微妙なずれがあります。それは、「強さ」や「賢さ」も環境への適応の結果であることです。
ある環境において有利な能力や知恵を発達させたものは、その環境下での競争の優位者となり、強者・賢者となります。ですが適応すればするほど、環境への依存も高まり、環境の変化に対して対応する力を失っていくことになります。
ゆえにダーウィンは「進化とは『進歩』ではなく、目的や意味はない」と、生存競争とその結果の進化に価値判断を持ち込むことを否定しましたが、社会理論に応用される過程でこの部分は切り捨てられていきました。すなわち「競争で生き残るのは、最も進歩した優れ者である」と。
社会ダーウィニズムは現在ではほぼ否定されていますが、その影響が強いのがいわゆる自由競争至上主義です。一般的な自由主義や競争主義は、競争を通じた資源分配を考えますが、この考え方は分配よりも競争による『選別』にずっと大きなウエイトを置くところに特徴があります。競争で優位な方向へ全体を誘導し、「劣る」ものを淘汰して消滅させ、「優れた」ものだけを生き残らせる、これを常時続けることで、社会全体が進歩していくという考えです。
ですが、それは、競争で優位であることが「優れて」いる、「正しい」、という認識に根本的な誤りを含んでいるのです。
全体が競争に優位な方向に動いて、競争に劣位なものを排除していったとき、その社会はきわめて環境の変化に弱い社会となります。ある環境で目覚ましい発展をした企業が、その後環境の変化に適応できず没落した例は数多いですが、一企業ならばともかく、国や社会がそうなればずっと多くの人の悲劇となるでしょう。
ゆえに社会全体の原理が『競争主義』であってはなりません。淘汰による消滅ではなく多様な能力や特徴をプールすることこそが、社会の安定と発展につながるものです。
競争の効用は認めつつも一定の範囲内でコントロールし、社会の基本原理はあくまで『共生』であるべきなのだと私たちは考えます。
共産党が農業・中小企業の保護育成や所得再分配を主張し、自由競争の抑制を唱えるのは、単に人権や人道の問題であるというだけではなく、日本社会、あるいは地域社会の長期的な安定と発展を目指す考えからです。「強者」も「弱者」も共生できる社会を、私たちは目指すものです。